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ゲティスバーグの戦い [歴史]

 1863年5月初めから連邦(アメリカ合衆国)の首都ワシントンをめざして北進していた南部連合(アメリカ連合国)軍リー将軍は、6月28日ペンシルヴェニア州南部の要衝ゲティスバーグにヴァージニア軍団を集めました。ペンシルヴェニア侵攻によって北部を分断し、南部連合打倒が不可能なことを国の内外に示すねらいでした。
 一方、迎え撃つリンカン大統領は、ミード将軍を派遣しました。こうして、両軍はゲティスバーグの町の下手にあるセミタリー・リッジの高台で、7月1日激突しました。戦闘は3日間続き、3日の午後、両軍の一斉砲撃に続いて、ビケット将軍が指揮する1万5,000人の南軍は、銃剣を携え隊列を組んで突撃しました。しかし、北軍の砲撃の前に、将校、兵士ともほとんどが死傷するという悲劇を招きました。
 この「ビケットの突撃」とよばれる高地への攻撃を決行させたリー将軍は、戦略の誤りを認め、翌4日豪雨のなかを退却することになります。この3日間の戦闘で、北軍8万6,000人のうち2万3,000人、南軍7万5,000人のうち2万8,000人が死傷し、南北戦争史上、最大の惨事となりました。
 同年11月19日、ゲティスバーグの戦いの跡地を国立戦没者墓地とし、戦死者の霊を弔う式典が、リンカン大統領を招いて行われました。このとき、同大統領の追悼演説が、「人民の、人民による、人民のための政治」のことばで結ばれたことはあまりにも有名です。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。 
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