SSブログ

ロシア、国会開会からストルイピン体制へ [歴史]

 1906年5月10日、この日、前年1905年の第1次ロシア革命の成果を受けて、ロシアで最初の国会が開会されました。地主やブルジョアジーに有利な選挙法だったのにもかかわらず、ツァーリ政府に反対する党派が大多数を占め、議長もその中心であるカデット(立憲民主党)から選ばれました。
 この後、ツァーリ政府は、土地改革の要求など、議員たちの激しい政府批判に対して、同年7月21日、国会を解散します。これと同時に国会運営の手腕から内務大臣ピョートル・ストルスピンが首相に就任します。彼は同年11月22日の勅令によってミール(農村共同体)の解体、個人農の創出などの改革にのりだしました。しかし、彼は翌1907年3月に召集された第2国会を解散、選挙法も富裕層優遇に変えました。同年11月14日に開会された第3国会では、反革命派が勢力を盛り返し革命派を弾圧します。こうして、ロシアは第1次ロシア革命からストルイピン体制へと移行していきました。
 ストルイピンの打ち出した最も重要な方策は、私有地をもつ個人農の創設でしたが、改革は難航し、皇帝・保守的地主派と対立しました。そして、1911年9月14日、一説には警察のスパイされる人物によって、狙撃され死去しました。彼は名門貴族の出身で、皇帝の権力を盾に改革を強行し、反動の権化といわれてきましたが、現在は大政治家としての評価が高まっています。彼がすすめていた自営農創設は、ロシア革命直前の1916年の時点で、全農家の22%がミールを離脱しています。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。