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ガリバルディ、南イタリア支配 [歴史]

 ガリバルディ率いる赤シャツ隊が1860年5月11日、シチリア島西端に上陸しました。当時、シチリアはスペイン系ブルボン王家が支配する両シチリア王国に属し、25,000人の政府軍が配備されていました。しかし、赤シャツ隊の上陸に、多くの島民が社会改革を期待してガリバルディ側に加わり、蜂起します。
 赤シャツ隊は、同月15日にシチリア西部のカラタフィーミで3倍の兵力の政府軍と戦い、これを退却させると、同月29日には同島の中心都市パレルモを占領しました。これがきっかけとなって全島に反乱が拡大、政府軍は降伏しました。
 さらにガリバルディ軍は、1860年8月19日にイタリア半島の南端にあたるカラブリアに上陸すると、ブルボン王家は首都ナポリを放棄して逃亡し、王国はいっきょに崩壊しました。同年9月7日にガリバルディはナポリに入城し、南イタリアの実質的な支配者となりました。ナポリに入城したガリバルディは、この都市の守護聖人である聖ジェンナーの奇蹟(ガラス容器中の聖人の血が溶け出す現象)に立ち会い、この政変が神意にかなうものであることを市民に印象づけました。
 ガリバルディの生涯は、青年イタリアに加入、1834年ジェノヴァでの蜂起に失敗、南米に亡命しウルグアイの独立運動に協力、1848年イタリアに戻ると、対オーストリア独立戦争に参加するなど、革命・亡命・戦争に彩られ、まさに波乱万丈でした。そのため、存命中から彼はロマン主義時代の伝説上の人物となっていました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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ガリバルディと赤シャツ隊 [歴史]

 ヴィラフランカの講和でフランスがオーストリアと単独講和を結んだことに対して、イタリア各地で不満がつのり、統一を求めて蜂起が次々とおこりました。カヴールもこの講和を不満としてサルデーニャ王国首相を辞任しますが、翌1860年1月21日復職します。結局、イタリア統一戦争ではサルデーニャはロンバルディアしか併合できず、ヴェネツィアは依然としていオーストリアに残ることになりました。カヴールはナポレオン3世と交渉して、サヴォイアとニースを割譲するかわりにサルデーニャによる中部イタリアの併合を認めさせました。ニースとサヴォイアは4月に行われた人民投票によってフランスに属することが決定し、1860年6月14日ナポレオン3世がニースに入城しました。
 それに先立つ、1860年5月6日、サルデーニャ王国の支援をうけた、ガリバルディ率いる1,000人あまりの義勇軍(赤シャツ隊(千人隊))が、ジェノヴァ近郊のクアルトから2隻の船で出航しました。そして同月11日、シチリア島西端のマルサーラに上陸しました。
 ガリバルディが率いた義勇軍は赤シャツを制服としていました。赤シャツは、かつてガリバルディが南米での独立戦争に参加したときに、食肉解体場の作業服(血の色が目立たない赤)の生地を制服に制服に使用したことから生まれたものでした。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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ヴィラフランカの講和 [歴史]

 プロンビエールの密約で、サルデーニャ王国首相カヴールはイタリア統一の障害となっていたオーストリアとの戦争で、フランスの参戦をとりつけることをねらっており、皇帝ナポレオン3世のねらいは、ヨーロッパ国際社会における主導権獲得と、サヴォイアとニースを手に入れることでした。
 1859年6月24日、イタリア北部ガルダ湖畔のソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ王国同盟軍がオーストリア軍を撃破しました。両軍あわせて26万の兵が11時間に及ぶ死闘を展開し、この年4月末にオーストリア軍の攻勢から始まったイタリア統一戦争での最大の決戦となりました。19世紀における最大の戦闘の一つといわれるソルフェリーノの戦いでは、両軍あわせて4万人に近い死者が出ました。その惨状を目撃し、救援活動を行ったデュナンは、戦後に赤十字運動を提唱しました。彼は1901年、最初のノーベル平和賞を受賞しています。
 この戦いでの勝利に対して、ナポレオン3世は自国の南に大国が登場する危機を感じ、同年7月11日、サルデーニャの承認なしに、オーストリアと単独で講和を結んでしまいます(ヴィラフランカの講和)。フランスの単独講和に、イタリア各地で不満がつのり、統一を求めて蜂起が次々とおこりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam)を検索ください。



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プロンビエールの密約 [歴史]

 1858年7月20日、サルデーニャ王国首相カヴールとフランス皇帝ナポレオン3世がアルプス山麓の温泉場プロンビエールで、イタリア問題の解決のために、オーストリアとの戦争をどのようにすすめるかをめぐって、秘密会談を行いました。
 ここで成立した密約によわれば、フランス側は20万人の兵力を提供し、勝利の後にはサヴォアとニースの両地方をサルデーニャ側から獲得するとし、サルデーニャ王国は北部イタリアのみを併合することになっていました。中部と南部イタリアは、ローマ教皇を総裁とするイタリア連邦に組み込むとされていて、イタリア全体の統一は想定されていませんでした。
 カヴールはイタリア統一の障害となっていたオーストリアとの戦争で、フランスの参戦をとりつけることをねらっており、フランスのねらいは、ヨーロッパ国際社会における主導権獲得と、サヴォアとニースを手に入れることでした。
 1859年4月29日、カヴールがオーストリアから要求されていた軍隊の解散を拒否したため、オーストリア軍がピエモンテに侵入し、イタリア統一戦争が始まりました。また、5月22日には在位中、シチリア諸都市を砲撃して反動化をすすめた、両シチリア王国の国王フェルディナンド2世が死去するなど、イタリア半島の情勢はいっきょに流動化しました。
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