SSブログ

皇帝アレクサンドル2世、暗殺される [歴史]

 革命の展望を失ったナロードニキのなかには、アナーキズム(無政府主義)やニヒリズム(虚無主義)に走るものも現れ、皇帝や政府高官の殺傷をめざす、テロリズム(暴力主義)が活発化しました。1879年4月、ナロードニキの秘密結社「土地と自由」による皇帝アレクサンドル2世の暗殺未遂事件が起こり、同年8月には同結社は、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と農民工作を志向する「土地総振替」派に分裂しました。
 テロが権力に打撃を与えるもっとも効果的と考える「人民の意志」派は、列車や冬宮の食堂に爆弾を仕掛けて、何度も皇帝暗殺を企てました。そして、1881年3月13日、皇帝アレクサンドル2世は、「人民の意志」派の襲撃を受けてサンクトペテルブルクの路上で爆弾テロにより暗殺されました。軍事パレードを観閲して冬宮への帰路の途中でのことでした。また、皇帝が憲法草案に同意して公式声明を発表する直前のことでした。同年6月にはドイツ・オーストリア・ロシア間の三帝同盟の復活がなされ、翌1882年ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟が結成されている時期のことです。
 20世紀に入って、ナロードニキの運動はロシアでは社会革命党(エスエル)に受け継がれ、主流はメンシェヴィキと提携しましたが、左派はボリシェヴィキと結んでロシア十月革命を成功に導きました。日本では自由民権運動がおきると、同時代のナロードニキに対する関心が高まりました。そして、爆弾戦術が導入されたりして、日本の急進的知識人がロシアを模範として運動を展開していきました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

ナロードニキの運動 [歴史]

 1870年代には入ったロシアでは、西欧的教養を身につけてロシアの後進性を意識し、改革の必要性を認識していた知識人階級(インテリゲンツィア)が新しい変革をめざす運動を始めました。かれらはミール(農村共同体)に相互扶助の伝統があることに着目し、農村工作運動を展開して、資本主義を通過しないで社会主義を実現しようとしました。その方針のもとに「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」を合言葉に、知識人や学生は都会から農村に入っていきました。かれらはナロードニキと呼ばれ、1873年頃から始まり、翌1874年には運動の全盛期を迎え、数万の青年が農村に入り社会主義革命を宣伝し、農民蜂起を扇動しました。
 しかし、1870年代前半はほとんど農民に受け入れられず、後半には「土地と自由」を掲げて半インテリとして農村に定住し、地道な活動を進めたので、一部には受け入れられるようになりましたが、政府の弾圧はきびしく、ほとんどが失敗に終わりました。1878年1月23日、前年に逮捕された193名のナロードニキに対する公開裁判がモスクワで行われました。被告の大部分は学生で、100人が無罪、その他の者も軽い刑罰ですみましたが、革命の展望を失ったナロードニキのなかには、アナーキズム(無政府主義)やニヒリズム(虚無主義)に走るものも現れ、皇帝や政府高官の殺傷をめざす、テロリズム(暴力主義)が活発化しました。ナロードニキが革命の母体と考えたミールは、皮肉にもこののち19世紀末までツァーリ(皇帝)権力を支える保守的な役割を果たしていきます。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

インテリゲンツィアの登場 [歴史]

 1861年の農奴解放令はロシア資本主義発達の出発点となったとされています。しかし、農奴解放令をはじめ一連の「大改革」をおこなった皇帝アレクサンドル2世自身は、1863年1月におこったロシア領ポーランドにおける反ロシア独立運動に手を焼いたこともあって、その後、徐々に反動的政治姿勢をとるようになります。1863年1月22日、ロシア領ポーランドで、中央国民委員会が臨時国民政府の名でロシアに対する蜂起宣言を発し、国民によびかけました。ポーランド駐在のロシア正規軍10万人に対して、闘争に加わったのは2万人といわれますが、行動は新たな蜂起をよんで続けられていきます(1月蜂起)。翌1864年3月2日に皇帝はロシア領ポーランドにも農奴解放令を公布します。
 1870年代に入ったロシアでは、農民は解放されたといっても長期の借財に苦しみ、生活環境の改善は進まず、工業化の遅延から市民階級の成長は遅れていました。そうしたなかで、変革をめざす人びとが新たに登場します。彼らは都市に居住し、進歩的貴族や新興市民の子弟からなり、西欧的教養を身につけてロシアの後進性を意識し、改革の必要性を認識していた知識人階級(インテリゲンツィア)でした。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

ロシア農奴解放令、その後 [歴史]

 1861年3月の農奴解放令により、約2,250万人の農奴は解放され、「自由な農民」となりました。この解放令では、農民は人格的な解放にとどまり、逆に経済的な支配が強められることになります。土地の所有権は有償で、しかも、農民には資金がなかったので、政府がいわゆる「買い戻し金」を肩がわりして地主に補償金を支払い、農民は政府に対して借金を49年間の年賦で償還するという方法がとられました。政府立て替えの借金の償却までは農民は耕作権をもつだけでした。しかも土地を購入してもそれは個人には属さず、ミール(農村共同体)に帰属し、買い戻し金支払いにもミールが連帯責任を負うことが決められていました。そのため、農民は独立した自営農民にすすむことも、自由な賃金労働者となることも許さない制度でした。
 しかし、皇帝アレクサンドル2世のそのほかの一連の「大改革」、すなわち地方自治機関・ゼムストヴォの設立、裁判制度、軍制改革(兵士の読み書き能力を高める試み)の実施などとあいまって、ロシアでは中間階級が台頭し、医者や弁護士など自由職業が出現し、都市労働者も増大したことから、この解放令はロシア資本主義発達の出発点となったとみなされています。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0)