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日本海海戦から講和へ [歴史]

 1905年5月27日午後1時39分、連合艦隊はバルチック艦隊を対馬沖で発見、ただちに戦闘態勢に入り、1時55分ロシア艦隊の進行前面を横切っていっせいに砲撃を開始しました。先頭のロシア艦は集中砲火をあびて相次いで大破、連合艦隊はロシア艦隊をはさみうつ形で攻撃をつづけ、ロシア艦隊は大混乱に陥りました。ウラジオストク港に逃れようとするロシア艦隊は連合艦隊の追撃をうけ、午後6時ころからの海戦ではロシアは主要な艦船を失いました。さらに夜に入っても、ロシア艦隊は駆逐艦や水雷艇の攻撃をうけ、翌28日朝までに壊滅的な損害をこうむりました。
 1905年5月28日午前5時すぎに連合艦隊は生き残ったロシア艦隊を発見しますが、戦意を失ったロシア軍は降伏し、ここに日本海海戦は終わりました。バルチック艦隊38隻中、19隻が撃沈、5隻が捕獲され、自沈や中立港へ抑留されたものを除いて、ウラジオストク港へ逃げのびたロシアの軍艦はわずか3隻でした。講和を拒否してきたロシア皇帝も、この決定的な敗北により講和交渉のテーブルに着くことになります。
 講和会議は、セオドア=ローズヴェルト米大統領の斡旋によって、1905年8月10日の第1回会議で日本側の条件が提示され、同月12日ロシアが対案を示して具体的な交渉に入りました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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日本海海戦 [歴史]

 1905年5月27日、北欧バルト港のリバウ港からアフリカ大陸を迂回し、7ヵ月におよぶ東航をつづけてきたロシアの38隻からなるバルチック艦隊を、釜山西方の鎮海湾で待ちうける日本連合艦隊は、哨戒艦の「敵艦見ゆ」の電報に、東郷平八郎司令長官は「直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれども浪高し」と打電しました。同日午後1時39分、連合艦隊は、バルチック艦隊を対馬沖で発見、ただちに戦闘態勢に入り、東郷長官は、1時55分、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」との訓令を示すZ信号旗をかかげて南下しました。
 南下する連合艦隊は、北進してくるロシア艦隊の前面を横切っていっせいに砲撃を開始する意表をつく作戦をもちいました。動揺するロシア艦隊は戦列を乱し、先頭の艦は集中砲火をあびて相次いで大破、連合艦隊はロシア艦隊をはさみうつ形で攻撃をつづけ、ロシア艦隊は大混乱に陥りました。ウラジオストク港に逃れようとするロシア艦隊は連合艦隊の追撃をうけ、午後6時ころからの海戦ではロシアは主要な艦船を失いました。さらに夜に入っても、ロシア艦隊は約40隻におよぶ駆逐艦や水雷艇の肉薄攻撃をうけ、翌28日朝までに壊滅的な損害をこうむりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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奉天会戦から講和交渉へ [歴史]

 乃木希典率いる第3軍は物資の不足に悩みながら、旅順を死傷者59,000人という苦戦の末1905年1月に占領し、ロシア軍を降伏させました。旅順が陥落する一方、日露両軍は満州方面では膠着状態に陥っており、両軍はいずれも奉天での戦いに最大規模の兵力を結集させていました。旅順が陥落すると、旅順攻撃にあたった第3軍の編制替えが行われ、また新たに鴨緑江軍も結成されました。第3軍は、日本軍の最左翼から北上してロシア軍の後方へ迂回し退路をたち、最右翼の鴨緑江軍がロシア軍をけん制する作戦をとりました。
 1905年2月下旬、まず鴨緑江軍が行動をおこし、さらに第3軍が進撃をはじめると、ロシア軍の正面にいた第1・第2・第4軍もいっせいに砲撃を開始しました。奉天会戦の開始です。奉天会戦は日露戦争最大の陸上戦で、日本軍は約25万人、ロシア軍は約32万人の兵力を動員しました。3月1日には全線にわたる総攻撃を展開しますが、第3軍を除いて苦戦をつづけ、戦線は膠着します。しかし、日本軍の攻撃でロシア軍側はかなりの被害をうけ、3月7日からロシア軍が後退をはじめ、3月10日日本軍はようやく奉天とその付近を制圧しました。しかし、死傷者7万人という兵の損失と弾薬の不足で、追撃にでる余裕は日本軍にはなく、ロシア軍の退路をたつ包囲作戦は失敗しました。この奉天会戦は日本陸軍の限界を示し、以後、講和交渉のいとぐちを探ることになります。
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日露戦争 [歴史]

 1904年1月13日、日本政府が満州問題に関する最終案をロシアに提示しましたが、ロシア政府は「もはや日本と交渉しない。満州は露清両国だけの問題」と突っぱねました。こうして日露間の交渉き暗礁に乗り上げ、元老や関係閣僚を集めた緊急御前会議は2月4日に開戦を決定しました。2月8日、2日前に佐世保を出発した日本の連合艦隊の一部は朝鮮の仁川に到着し、陸軍派遣対を上陸させる一方、連合艦隊の主力は同日夜半過ぎ、中国遼東半島の旅順港外ロシア艦隊を攻撃、日露戦争が始まりました。
 当初、日本軍は満州に兵力を集中してロシア軍主力との決戦をめざしますが、バルチック艦隊の極東への回航が明らかになりました。そのため、6月に満州軍総司令部が編制され、第1、2,4軍がロシア軍前面にあたり、第3軍はロシア極東艦隊主力第1艦隊救援のため回航してくるバルチック艦隊が旅順港に到着する前に、旅順港を奪取する任務に振り向けられました。
 以後、第1、2,4軍は、この年9月に遼陽を占領、その後、沙河の会戦、黒溝台の会戦でロシア軍を撃退します。一方、乃木希典率いる第3軍は物資の不足に悩みながら、旅順を死傷者59,000人という苦戦の末翌1905年1月に占領、旅順港内のロシア極東艦隊主力第1艦隊のほとんどを撃沈、ステッセル率いるロシア軍を降伏させました。そして、3月には全軍が合流し、奉天(現在の瀋陽)を占領します。
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