SSブログ

日露戦争 [歴史]

 1904年1月13日、日本政府が満州問題に関する最終案をロシアに提示しましたが、ロシア政府は「もはや日本と交渉しない。満州は露清両国だけの問題」と突っぱねました。こうして日露間の交渉き暗礁に乗り上げ、元老や関係閣僚を集めた緊急御前会議は2月4日に開戦を決定しました。2月8日、2日前に佐世保を出発した日本の連合艦隊の一部は朝鮮の仁川に到着し、陸軍派遣対を上陸させる一方、連合艦隊の主力は同日夜半過ぎ、中国遼東半島の旅順港外ロシア艦隊を攻撃、日露戦争が始まりました。
 当初、日本軍は満州に兵力を集中してロシア軍主力との決戦をめざしますが、バルチック艦隊の極東への回航が明らかになりました。そのため、6月に満州軍総司令部が編制され、第1、2,4軍がロシア軍前面にあたり、第3軍はロシア極東艦隊主力第1艦隊救援のため回航してくるバルチック艦隊が旅順港に到着する前に、旅順港を奪取する任務に振り向けられました。
 以後、第1、2,4軍は、この年9月に遼陽を占領、その後、沙河の会戦、黒溝台の会戦でロシア軍を撃退します。一方、乃木希典率いる第3軍は物資の不足に悩みながら、旅順を死傷者59,000人という苦戦の末翌1905年1月に占領、旅順港内のロシア極東艦隊主力第1艦隊のほとんどを撃沈、ステッセル率いるロシア軍を降伏させました。そして、3月には全軍が合流し、奉天(現在の瀋陽)を占領します。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。