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ヴィルヘルム2世、ドイツ皇帝に即位 [歴史]

 ドイツの宰相ビスマルクは、ロシアに好条件を提示して、1887年6月、ロシアと再保障条約に調印しました。しかし、一方で、ビスマルクは翌1888年2月、1879年に締結していたドイツ・オーストリア秘密同盟を公表して、ロシアをけん制することも忘れませんでした。
 1888年6月15日、ヴィルヘルム2世が29歳で第3代ドイツ皇帝に即位しました。この年の3月9日に初代皇帝ヴィルヘルム1世が90歳の高齢で死去し、跡を継いだフリードリヒ3世も、わずか3ヵ月の統治後に喉頭がんのため57歳で没しました。そこで、フリードリヒ3世の長子ヴィルヘルム2世が、急きょ、皇帝に即位することになりました。
 イギリスのヴィクトリア女王の長女を妃に迎えていた第2代皇帝のフリードリヒ3世は、皇太子時代に大学教育を受けた自由主義思想の持ち主で、しばしば父のヴィルヘルム1世や宰相のビスマルクと対立していました。しかし、ヴィクトリア女王の孫にあたる新帝ヴィルヘルム2世は、父とは異なり、イギリス流の議会主義には冷淡で、権威主義的な君主制原理の信奉者であったため、とりあえず彼の即位はビスマルクを安心させました。
 ヴィルヘルム2世は大の野心家でしたが、幼少よりわがままに育てられたことにより、衝動的な性格で、冷静な判断に欠ける一面がありました。この性格上の欠点が、これから2年後の1890年には、老練なビスマルクと対立し、彼を辞任に追い込むことになります。
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独・露が再保障条約締結 [歴史]

 1887年6月18日、ベルリンでドイツとロシアが再保障条約に調印しました。この条約は期限3年間の秘密条約で、両国のいずれかが第三国から攻撃された場合に他方は中立を保つこと、ドイツはバルカン半島でのロシアの利害を尊重し、またロシアのダーダネルス・ボスポラス両海峡への進出を外交的・道徳的に支援することなどが規定されています。
 この条約締結の背景として、つぎのようなことがあります。まず、1881年に独・露・オーストリアのあいだで三帝同盟が締結されましたが、バルカン半島をめぐるロシアとオーストリアの対立がたかまり、同盟条約の更新が不可能になりました。また前年の1886年1月、フランスに対独強硬派のブーランジェ将軍が陸相に就任したことにより、ドイツへの復讐戦争熱が急速に高まり、露仏同盟の可能性が浮上したことも大きな要因でした。
 このドイツの危機を未然に防ぐために、ドイツの宰相ビスマルクは、ロシアに好条件を提示して、再びドイツ側に引き寄せる必要に迫られました。再保障条約が締結されたことにより、ドイツのもくろみどおりフランスはまたも孤立することになります。しかし、同盟国オーストリアの利害と大きく矛盾するこの条約は、3年後ビスマルクの退陣とともに破棄されることになります。
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ベルリン=コンゴ会議の開催 [歴史]

 1884年11月15日、ドイツ、イギリス、フランスなどヨーロッパ諸国にアメリカ、オスマン帝国を加えた14カ国が参加して、アフリカにおける列強の利害調整を目的とした会議がベルリンで開催されました。ベルギー国王レオポルド2世のコンゴ川流域への強引な進出が、もともとこの地域と関係の深いポルトガルとの対立をまねきました。さらに、これに各国の思惑がからみはじめたため、ドイツのビスマルクがよびかけて、会議が開催されました。会議は3ヵ月以上におよび、レオポルド2世のコンゴ進出の母体となったコンゴ国際協会の主権を正式に承認し、ベルリン協定の採択をもって、翌1885年2月26日に閉幕しました。
 このベルリン協定には、アフリカ大陸沿岸部における新しい領土併合にさいしての原則が盛り込まれました。それは、ベルリン協定国による承認、さらに当該地域に対する実効支配の確立が、新たな領土獲得の条件とされました。この原則に従い、列強は相互間の調整と、各地の首長たちとの保護条約にもとづく「線引き」を行うことになり、コンゴは事実上、コンゴ自由国の王レオポルド2世の私領となりました。
 結果として、ベルリン=コンゴ会議は、アフリカ分割競争を一気に加速させ、列強による「紙上の分割」をもたらしました。
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1882年中国人移民制限法 [歴史]

 1881年3月ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されましたが、この暗殺をめぐり、反ユダヤ人暴動が、とくにウクライナ一帯で次々と起こり、虐殺や大量略奪にいたるポグロムとなりました。ロシアでポグロムが発生した同じ1881年、アメリカ合衆国では中国人を排斥する動きが表面化します。同年8月3日、米大統領アーサーは中国人の移民を向こう10年間禁止する移民制限法に署名しました。建国以来リベラルな移民法を取り入れ、すべての国の移民に門戸を開いてきたアメリカ合衆国が、はじめて一民族を排除の対象とした選択移民法を成立させました。
 この時期、中国系の人びとはカリフォルニア州だけでも15万人になっていました。もともと彼らは、カリフォルニアの金鉱労働者や大陸横断鉄道のクーリー(苦力)として、アメリカ合衆国が積極的に受け入れた移民労働者でしたが、白人労働者のあいだに危機感を生みだしていました。1870年代、アイルランド系のデニス・カーニーが扇動する中国人排斥運動は勢いを増し、カリフォルニアの労働者党も共鳴し、「中国人労働者は長時間、低賃金で働きすぎる」「彼らはアメリカ化する意志はなく、蓄財を母国に持ち帰ろうとしている」と糾弾していました。
 こののち、移民法は1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民は永久に禁止されました。
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ロシアでポグロムが発生 [歴史]

 ポグロムはロシア語で「破壊」を意味します。19世紀から20世紀初頭にロシアで起こったユダヤ人に対する略奪や虐殺のことです。1881年3月皇帝アレクサンドル2世はサンクトペテルブルクの路上で暗殺されましたが、この暗殺をめぐり、反ユダヤ人暴動が、とくにウクライナ一帯で次々と起こり、虐殺や大量略奪にいたるポグロムとなりました。
 即位した新皇帝アレクサンドル3世は、これを静観するばかりでなく、ユダヤ人=搾取者という考えに立って、ポグロムを積極的に反ユダヤ政策強化のために利用します。ユダヤ人が農村地帯に新たに定住することを禁止する布告を発するばかりでなく、居住許可地域にさえ制限を加えていきます。この結果、ユダヤ人の居住地域は大都市のゲットーに限られていき、またアメリカ合衆国や西ヨーロッパ、パレスティナへの移住が始まります。このポグロムが起こった背景には、1861年の農奴解放令以後の農民の土地不足と貧困や、ユダヤ人とロシア人双方のブルジョア勢力の競争の激化があげられます。
 これ以降、ポグロムは1905年の「血の日曜日事件」にはじまる第1次ロシア革命弾圧に利用され、またロシア十月革命後の1918~21年の内戦の際に赤軍に敵対する白衛軍によって大規模に行われました。
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