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南アフリカ戦争(ブール戦争)が終結 [歴史]

 1899年10月12日、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は共同してイギリスに宣戦布告して、南アフリカ戦争(ブール戦争)が勃発しました。同年12月11日にはブール軍にイギリス軍が惨敗し、同月15日にもイギリス軍はコレンソの戦いで敗れるなど、当初はイギリス軍1万5,000に対し4万の兵力でブール人が有利に戦いを展開していました。しかし、イギリス本国から援軍が送られ、戦局は転換します。
 1900年9月1日、この日、イギリスがトランスヴァール共和国の併合を宣言して、ほぼ体勢が決しました。当初、劣勢だったイギリス軍は、この年1月、インドで武名を高めたロバーツ将軍が総司令官に、またスーダンの反乱を鎮圧したハーバート=キッチナーが参謀長に任命されて以降、形勢が逆転しました。同年3月にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンを占領、5月24日に同国の併合を宣言、そして6月にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアも占領し、9月1日の同国の併合による完全勝利となりました。しかし、こののちもブール軍はゲリラ戦を展開し、1902年春まで執ような抵抗を続けました。
 1902年5月31日、和平交渉を重ねてきたブール軍代表とイギリスがフェレーニヒング和平条約に調印、ここに南アフリカ戦争が終結、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国はイギリスの植民地となりました。イギリスは荒廃したブール人の農場を再建するために300万ポンドを支払うことを約束、また、この戦争でイギリス側の死傷者約9万人を出しました。一方、この戦争のあいだ強制収容所に送られたブール人の女性や子ども2万人が、劣悪な衛生環境などによって、死亡しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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南アフリカ戦争(ブール戦争)が勃発 [歴史]

 オランダ系の移民(ブール人)の国オレンジ自由国とトランスヴァール共和国に豊富なダイヤモンドや金鉱が1886年に発見されると、ケープ植民地首相セシル=ローズはその資源を狙い北進を開始しました。
 そして、1895年12月29日、彼の仲間のイギリス南アフリカ会社のリンダー=ジェームソンが500名の兵士を率いて、トランスヴァール共和国に不法侵入しました。しかし、この時の侵入事件は失敗に終わり、セシル=ローズは政界を引退、ジェームソンはブール人の捕虜となり本国に送還されました。
 イギリスはジェームソン侵入事件でブール人に撃退されましたが、カイロとケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策を実現し、トランスヴァール共和国の金鉱を支配するために、同国を挑発することをやめませんでした。1899年初頭からの、イギリス植民地相ジョゼフ=チェンバレンと南アフリカ高等弁務官アルフレッド=ミルナーの露骨な内政干渉が直接的の引き金となって、同年10月12日、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は共同してイギリスに宣戦布告して、南アフリカ戦争(ブール戦争)が勃発しました。同年12月11日にはブール軍にイギリス軍が惨敗し、同月15日にもイギリス軍はコレンソの戦いで敗れるなど、ブール人が有利に戦いを展開しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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南アフリカ戦争(ブール戦争)へ [歴史]

 アフリカ大陸南端のケープ地方に、1652年オランダ東インド会社が補給基地(のちのケープタウン)を築き、やがてオランダ人中心の入植者社会が形成されました(ケープ植民地)。イギリスはナポレオン戦争の際にこれを占領、1806年に植民地とし、1815年のウィーン議定書により列国に承認されました。その結果、イギリスの支配が強まると、それをきらってオランダ系の移民(ブール人)は北方に移住し、オランダ自由国とトランスヴァール共和国を建設しました。
 この両国に豊富なダイヤモンドや金鉱が1886年に発見されると、ケープ植民地首相セシル=ローズはその資源を狙い北進を開始しました。南アフリカでのダイヤモンド採掘事業に成功して独占権を握っていたセシル=ローズは、トランスヴァールの金鉱採掘事業をも支配していました。かれはイギリス本国の過剰な人口と商品をさばくためには、帝国主義が必要であると主張し、「人びとは内乱を望まないなら、帝国主義者となり、地球を分割しつくしたら遊星をも併合しよう」、「帝国主義、それは増加する人口の胃の腑の問題だ」と語っています。この言葉は当時の帝国主義の気運をよく表現しています。
 そして、1895年12月29日、イギリス南アフリカ会社のリンダー=ジェームソンが500名の兵士を率いて、トランスヴァール共和国に不法侵入しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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フランスでドレフュス事件起こる [歴史]

 露仏同盟が成立した1894年、フランスでは反ユダヤ感情が生み出したえん罪事件である、ドレフュス事件が起こりました。
 1894年9月末、フランス軍参謀本部は、ドイツに情報を提供したとするドレフュス大尉のメモを入手し、彼を逮捕しました。だが、それは証拠が不十分でした。しかし、同年11月1日、このことが新聞にスクープされ、事件のもみ消しが不可能となり、さらに軍情報部のアンリ少佐の証言が裁判で有罪の決め手となりました。同年12月2日、フランス軍法会議は、ユダヤ人のドレフュス大尉をスパイ罪で終身流刑としました。
 これより12年前の1882年、カトリック系の銀行ユニオン・ジェネラルが倒産し、多くの市民が預金を失って以来、フランス国民のあいだでは金融界を支配しているユダヤ人への反感が強まっていました。さらに、ドイツとの緊張が高まり、激しい諜報合戦のなかで起きたこの事件は、ユダヤ人のしわざであるとされ、誰もがユダヤ人のドレフュス大尉の有罪を信じました。
 翌1895年1月、彼は南米のギアナ沖の悪魔島に送られました。しかし、流刑の後で、無罪の資料が出てきて、社会的大問題となり再審運動が高まりました。それに対して、軍部は闇に葬ろうとし、1897年には時の首相も「事件は存在しない」と答弁しますが、再審運動はさらに高まりました。1899年の軍法会議はあらためて有罪とし、同年、恩赦としました。その後、ドレフュスは1906年に無罪判決を獲得します。この事件は反ユダヤ感情が生んだえん罪事件でした。
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