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プロイセン=フランス戦争 [歴史]

 ドイツ統一をもくろむプロイセンの首相ビスマルクにとって、フランスの存在は大きな障害でした。彼は軍事力を増強し、国境付近に重点的に鉄道を敷設するなど、着々と対仏戦争の準備をすすめる一方、フランスのベルギー進出を妨害するなど挑発を繰り返していました。そして、ついにエムス偽電報事件をきっかけに、ナポレオン3世は1870年7月プロイセンに宣戦布告し、プロイセン=フランス戦争が勃発しました。
 フランス軍は35万で大砲は青銅製、対するプロイセン軍は45万で最新の鋼鉄製のクルップ砲を備え、デンマーク戦争やプロイセン=オーストリア戦争など実戦を経験ずみでした。下降ぎみの人気を回復しようと病身を押して前線で出たナポレオン3世が指揮するフランス軍は敗北を重ね、国境を突破されます。名将バゼーヌ将軍が総指揮官に任命され前線へ向かいますが、この主力部隊もパリ近郊のメッスで包囲されました。ナポレオン3世率いる10万のフランス軍がバゼーヌ救出にむかったものの、逆にスダンでプロイセン軍に包囲され、1870年9月2日降伏しました。
 同年9月4日、「皇帝降伏」の報せがパリに届くと、1789年以来3度の革命を経験しているパリの民衆は、早朝から議場を取り巻き帝政廃止を迫りました。こうしてナポレオン3世の第二帝政は崩壊し、国防臨時政府が成立、共和政が宣言されました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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エムス偽電報事件 [歴史]

 1868年のスペイン9月革命で女王イサベル2世がパリに亡命して以来、空位となっていたスペイン王位に、プロイセンのホーエンツォレルン家の王子レオポルトが推戴され、1870年6月19日、受諾を表明しました。これに対して、フランス皇帝ナポレオン3世はこの推戴に強く反対し、同年6月25日、パリに亡命中のイサベル2世が退位の説得に応じ、長子アルフォンソ12世に譲位しました。ここに、スペイン王位をめぐって、プロイセンとフランスが対立することになりました。同年7月、ナポレオン3世はエムスで休養中のヴィルヘルム1世に公使を派遣し、同月9日両者が会見し、スペイン王位継承問題を話し合いました。そして12日、会見の結果をうけて、国王に推戴されていたレオポルトが即位を辞退しました。ところが、翌13日、会見の内容を知らせる電報を受け取っていたビスマルクは、フランス公使が王を脅迫し王が公使を追い返したように、電文を改ざんして発表しました(エムス偽電報事件)。こうして、ビスマルクはドイツ人を憤激させるとともにフランス人を挑発し、プロイセン=フランス戦争のきっかけをつくりました。
 プロイセン=オーストリア戦争の後、プロイセンが勢いをますと、フランスのナポレオン3世は隣国に強大な国家の登場を阻止しようとし、一方、ビスマルクの側もドイツ統一を実現するためにはナポレオン3世との対決は不可避と考え、軍制を改革し着実に軍備の拡張と戦争準備を怠りませんでした。
 こうして、偽電報事件に激怒したナポレオン3世は1870年7月19日、プロイセンに宣戦布告し、プロイセン=フランス戦争が勃発しました。
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プロイセン=フランス戦争へ [歴史]

 1867年3月オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立しましたが、ドイツ人とマジャール(ハンガリー)人を支配民族とする二元的支配は、他の諸民族の不満を高め、たえず国家解体の危機に直面することになりました。翌1868年8月23日には、帝国議会のチェコ人議員が、ベーメン、メーレン、シュレジエンを併せた独立王国の建設を主張して、総辞職しました。
 同1868年9月、スペインでプリム将軍が軍隊の支持をとりつけ、女王イサベル2世親政の政府に対して反乱に踏み切りました。おりからの金融恐慌と凶作に国民の不満が高まり、都市民衆蜂起が各地でおき、耐えられなくなったイサベル2世は同月30日、スペインを脱出しました。これを称してスペイン9月革命といい、混乱が収拾される1875年までスペインでは「革命の6年」と呼ばれます。
 ところで、1868年の9月革命でイサベル2世がパリに亡命して以来、空位となっていたスペイン王位に、プロイセンのホーエンツォレルン家の王子レオポルドが推戴され、1870年6月19日、受諾を表明しました。これに対して、フランス皇帝ナポレオン3世はこの推戴に強く反対し、同年6月25日、パリ亡命中のイサベル2世が退位の説得に応じ、長子アルフォンソ12世に譲位しました。ここに、スペイン王位をめぐって、プロイセンとフランスが対立することになりました。
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オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立 [歴史]

 1867年4月、連邦加盟国の国法に優先する北ドイツ連邦憲法が採択され、プロイセン国王を首長とする、マイン川以北の北ドイツ22カ国からなる北ドイツ連邦が結成されました。連邦議会議長にプロイセン首相のビスマルクが就任し、ドイツ統一にむけて、プロイセンの主導的地位が確立しました。
 一方、プロイセンとの戦いに敗れ、ドイツ統一から排除されたオーストリアは、大国としての存続を図るため、支配下のハンガリーに特権を与え、議会と行政府の存在を容認して自治権を与えました(アウスグライヒ(妥協))。1867年3月26日、ハンガリー議会がオーストリアとの合体を定めるアウスグライヒ法案を承認し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立しました。
 この帝国では、オーストリア皇帝ヨーゼフ1世がハンガリー王を兼ね、両国は同一の君主のもとに外交、軍事、財政を共通とし、それ以外はそれぞれ、独自の憲法を定め、政府、議会を組織し、統治にあたるという同君連合体制でした。こうして、オーストリアは支配の重点を東ヨーロッパにおきましたが、ドイツ人とマージャール(ハンガリー)人を支配民族とする二元的支配は、他の諸民族の不満を高め、たえず国家解体の危機に直面することになりました。
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プロイセン=オーストリア戦争 [歴史]

 1865年8月デンマーク戦争に勝利したプロイセンとオーストリアは、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインをそれぞれ統治することで合意しました。
 ところが、翌1866年6月9日プロイセンはホルシュタインを併合し、同月16日にはザクセンやハノーファーに侵攻して、プロイセン=オーストリア戦争が始まりました。さらに同月20日には、反オーストリア同盟を結んでいたイタリアがオーストリアに宣戦布告をしました。この戦争の帰趨は、7月3日、プラハの東方約105kmのケーニヒグレーツ(サドワ)での戦いにおいて決せられました。この戦いで、参謀総長モルトケの指揮する22万のプロイセン軍が、新式の後装撃針銃を装備して、旧式前装銃の21万5,000のオーストリア・ザクセン連合軍に圧勝しました。
 同1866年8月23日、「プラハの和」が締結され、プロイセン=オーストリア戦争は終結しました。講和条約では、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が解体され、ドイツ統一からのオーストリアの除外、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン両公国のプロイセンへの編入などが定められました。さらに同年10月3日には、オーストリアとイタリアがウィーン条約を結び、イタリアがヴェネツィアを併合しました。翌1867年4月16日、北ドイツ連邦憲法が採択され、プロイセン国王を盟主として、北ドイツ22カ国からなる北ドイツ連邦が結成されました。こうして、プロイセン主導のドイツ統一への歩みが促進されました。
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