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第1次モロッコ事件 [歴史]

 1905年3月31日、北西アフリカのモロッコに進出の野望を抱いていたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、アフリカでのイギリス、フランス両国に対する出遅れを挽回するため、この日、みずからモロッコの港町タンジールを訪問しスルタンと会見、モロッコの独立と、モロッコの門戸開放・領土保全を要求し、フランスのモロッコ進出に反対の意思を表明しました。
 モロッコは地中海の出入口にあたる戦略的な要衝で、鉱物資源も豊富なため、19世紀以来、イギリス、フランス、スペインが進出し、モロッコ争奪戦を展開していました。そうしたなかで、前年1904年、英仏協商が成立し、イギリスのエジプト支配と、フランスのモロッコでの優先権が認められ、フランスはモロッコに積極的に進出を始めました。そのためドイツ皇帝の突然の訪問はフランスとの緊張をいっきに高めたたため、第1次モロッコ事件(タンジール事件)と呼ばれています。
 翌1906年1月16日、スペインのアルヘシラスで事件解決のための国際会議が開かれ、4月まで会議は続けられました。この会議でドイツはモロッコにおけるフランスの優越的地位を阻止しようとしましたが孤立し、失敗しました。会議の結果、モロッコ財政のフランス管理が認められて、モロッコは事実上フランス、スペインの勢力範囲となりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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