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露仏同盟が成立 [歴史]

 1890年ビスマルクが退陣すると、独皇帝ヴィルヘルム2世は「新航路政策」を掲げ、対外膨張政策を進めました。この政策は、オーストリアのバルカン進出とともに、露皇帝アレクサンドル3世に警戒心をいだかせ、ロシアもまた独露再保障条約の更新を拒否しました。1891年5月フランスの財政的援助により、ロシアはシベリア鉄道の建設工事に着手、7月フランス艦隊がロシアの軍港クロンシュタットを訪問、8月両国間で政治協定が結ばれました。
 こうした状況のなかで、翌1892年8月17日、ロシアとフランスのあいだで秘密軍事協定が調印されました。協定では、両国のどちらかがドイツ、オーストリア、イタリアから攻撃を受ければ、他方も軍事協力をするというものです。これによって、ドイツのフランス包囲網は崩壊しました。
 しかし、ロシアにとって共和政のフランスは、長い間危険な国家でした。そのため、1891年7月のフランス艦隊のロシア軍港訪問の際、ロシア軍楽隊が歓迎のためフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」を演奏しましたが、これはそのときまでロシア国内では禁止されていた曲でした。1891年に政治協定を結び、92年に軍事協定が調印されましたが、最後までためらっていた皇帝アレクサンドル3世の批准をえて、正式の調印をえたのは1894年1月4日のことでした。この露仏同盟は三国同盟に対抗しながら、イギリスを加えた三国協商へと発展していきます。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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露仏同盟へ [歴史]

 ドイツの宰相ビスマルクの外交政策は、フランスの孤立化政策にありました。しかし、ロシアとオーストリアがバルカンをめぐり対立、ドイツ・ロシア・オーストリアの三帝同盟(協商)の更新は不可能となり、ビスマルクは1887年6月、ロシアと再保障条約を締結して、ロシアをドイツ側につなぎ止めようとしました。それにもかかわらず、ロシアはドイツから離れていき、1894年にはドイツと対立する露仏同盟が成立します。
 すでにその徴候は、ロシアとドイツが再保障条約を締結した1887年にあらわれていました。同年、ベルリン帝国銀行はロシア公債の引き受けを拒否します。そんななか、ドイツから閉め出されたロシアの公債の80%近くを引き受けたのは、フランスの金融資本ロスチャイルド財閥でした。こうして、まず、ロシアとフランスとのあいだに経済的結びつきがはじまります。
 1890年ビスマルクが退陣すると、独皇帝ヴィルヘルム2世は「新航路政策」を掲げ、独露再保障条約の更新を拒否しました。翌1891年5月31日、フランスの財政的援助により、ロシアはシベリア鉄道の建設工事に着手、同年7月、フランス艦隊がロシアの軍港クロンシュタットを訪問、同年8月27日両国間で政治協定が結ばれ、さらに翌1892年8月27日両国は軍事協定に調印しました。こうした急速な両国の接近により、フランスは1870年のプロイセン=フランス戦争以来の国際的孤立から脱することになりました。
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欧米で第1回メーデー開催 [歴史]

 1890年9月30日、ビスマルクの失脚により、社会主義者鎮圧法が廃止され、それにともないドイツ社会主義労働者党は、現在につながる政党であるドイツ社会民主党と改称しました。その同じ年の5月1日、ヨーロッパやアメリカの各地で、第1回メーデーが開催されました。8時間労働を求めて労働者の集会やストライキが行われ、官憲との流血の衝突もありました。
 前年の1889年、パリでフランス革命100年を祝う国際社会主義者大会が開催されました。その大会で、1886年5月1日にアメリカで行われた労働者の運動を全世界に広げることが決議され、この年から5月1日が労働者祭日となりました。アメリカでは、1884年頃から8時間労働制をめざした運動が盛んに行われるようになっていました。1886年5月1日には全国で19万人を超える労働者が参加してストライキや集会が実施され、8時間労働獲得という大きな成果をあげました。
 メーデーの開催を決めた国際社会主義者大会を主催したのは、世界の社会主義政党の国際的連合組織である第2インターナショナルでした。こののちも、第2インターは3~4年おきに国際大会を開催しますが、ドイツ社会民主党を中心に改良主義政党と労働運動の指導者の交流の場として第一次世界大戦まで続きます。こうして、メーデーと第2インターは、全世界の労働者団結の象徴となりました。
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ビスマルク時代の終焉 [歴史]

 1890年3月20日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は宰相ビスマルクの辞表をこの日、受理しました。ここに、約20年に及ぶビスマルク時代は終焉を迎えました。
 辞任の直接のきっかけは、この年1890年9月に期限切れとなる社会主義者鎮圧法の取り扱いをめぐる皇帝との確執や対立でした。ビスマルクは社会主義者鎮圧法よりもさらに過酷な弾圧立法を、議会に提出しようとしていました。一方、皇帝は労働者保護立法の必要性を認めていました。皇帝はビスマルクの法律が内政上の紛争や対立の激化を招くと考え、ビスマルクの辞表を受理しました。
 こののち、皇帝は水先案内人ビスマルクの下船にともない、「航路は前のまま」として親政を開始しましたが、まもなく進路変更をともなう「新航路」政策をとります。
 ビスマルクが辞任した翌週の27日には、皇帝は1887年にロシアと締結したロシアとの再保障条約を更新せずに破棄しました。これは国際政治においても大きな転換となり、ロシアとフランスの接近をうながすことになります。また、同1890年9月30日には、ビスマルクの失脚により、社会主義者鎮圧法が廃止され、それにともないドイツ社会主義労働者党は、現在につながる政党であるドイツ社会民主党と改称しました。
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