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シュリーマン、トロイアを発掘 [歴史]

 1871年10月11日、ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマン(49歳)はアナトリア(小アジア)地方の北西端、遠くにダーダネルス海峡を望むヒッサルリクの丘に立っていました。彼は、少年時代にホメロスが作者とされる英雄叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』に感動し、そこに出てくるトロイア戦争の都の実在を信じて発掘を決意しました。そのため若年から転職を重ね、貿易商として巨万の財を成したのち、考古学を修めました。
 ヒッサルリクの丘は東西100m、南北115m、高さ36mほどの小さい丘で、紀元前3000年からローマ時代までの住居跡が重なっている場所でした。発掘を始めたシュリーマンは宮殿、城壁、さらにさまざまの財宝を発見し、ここが伝説の都トロイアの遺跡であることを確信し、翌1872年その成果を発表しました。
 その後さらに1876年ミケーネ、78年イタカ、81~82年オルコメノス、84~85年ティリンスと発掘を続け、ギリシア本土における青銅器文明の存在を実証しました。彼は虚言症の傾向があり、発掘方法や発掘成果についても速断や誤認などの問題も多くあり、彼の説は多くの点で修正されました。それでもなお、ギリシア先史時代の研究の先駆者としてたたえられています。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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パリ・コミューンの崩壊 [歴史]

 1871年3月18日、ティエール政府軍は蜂起したパリ国民軍の武装解除を図りますが、民衆の反撃にあって失敗しました。同月26日パリでコミューン選挙が行われ、民衆の自治都市パリ・コミューンが成立し、直接民主制による自治が開始されました。
 1871年4月になると、ヴェルサイユのティエール政府は農村から6万~8万人を徴兵し、ドイツからの帰還兵士を加え13万の正規軍がパリ攻撃を始めました。防衛側の国民衛兵は実質3万~6万程度ですが、武器を豊富に蓄え、城壁に囲まれたパリを陥落させるのは至難のわざでした。しかし、包囲が長引くにつれ、コミューン内部で混乱と分裂が広がり、民兵でしかない国民衛兵の弱体が目立つようになりました。
 1871年5月21日午後、ドイツの支援をとりつけた政府軍は市街へ突入を開始し、のちに「血の週間」とよばれるように、1週間にわたって殺戮を行い、パリを制圧しました。このパリ攻防戦で正規軍の戦死者877人に対し、コミューン側の犠牲者は3万人に達しました。
 それから、2年後の1873年5月24日、王党派が発議して、366対344の議会票決で、ティエール大統領が罷免され、マクマオン元帥が後任の大統領に選出されました。王党派はカトリック教会を強化して、王政復活をもくろみましたが、1875年1月30日王党派が分裂したことにより、第三共和政憲法が議会で1票差をもって可決されました。こうして、フランスでは、プロイセン=フランス戦争の敗北による第二帝政の崩壊と、パリ・コミューンの混乱をへて、第三共和政が不安定な政治基盤のなか、発足しました。
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パリ・コミューンの成立 [歴史]

 プロイセン軍に1870年9月以来パリを包囲されていたフランス国防臨時政府は1871年1月28日にパリを明け渡し降伏、ヴェルサイユ休戦協定を結びました。2月26日にはヴェルサイユ仮講和条約が結ばれ、5月10日にフランクフルトで正式に調印、ドイツはアルザス・ロレーヌ地方と50億フランの賠償金を獲得しました。
 その間、1871年2月8日に行われたフランス総選挙で王党派が圧勝し、同月17日ボルドーに国民議会をおき、ティエールを行政長官に選出しました。国民議会は3月1日ナポレオン3世を正式に廃位としましたが、ヴェルサイユ仮講和条約でアルザス・ロレーヌ地方を割譲し、パリ占領を許したティエール内閣に対するパリ民衆の怒りは強く、パリ国民軍が蜂起しました。3月18日、ティエール政府軍はパリ国民軍の武装解除を図りますが、民衆の反撃にあって失敗し、うろたえてヴェルサイユに逃げ出しました。
 1871年3月26日パリでコミューン選挙が行われ、同月28日パリ市庁舎のバルコニーからランヴィエ議員が「人民の名においてコミューンが宣言された」と叫び、直接民主制による民衆の自治都市パリ・コミューンが成立しました。こうして、パリの直接民主制による自治が開始されました。
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ドイツの統一がなる [歴史]

 ナポレオン3世が率いる10万のフランス軍はスダンでプロイセン軍に包囲され、1870年9月2日降伏しました。同年9月4日パリの民衆が蜂起し、共和派ブルジョアとともに国防臨時政府を樹立、ナポレオン3世の第二帝政は崩壊しました。一方、プロイセン軍は9月19日にはパリを包囲し、10月末にはバゼーヌ軍を降伏させました。民衆は徹底抗戦を主張しますが、籠城下のパリでは食糧も乏しくなり、国防政府は、年が明けると和平を急ぎ、1871年1月28日パリを明け渡し降伏、ヴェルサイユ休戦協定が結ばれました。2月26日にヴェルサイユ仮講和条約が締結され、5月10日フランクフルトで正式に調印、ドイツはアルザス・ロレーヌ地方と50億フランの賠償金を獲得しました。
 いまだプロイセン軍によるパリ攻撃の砲声がとどろく1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」に参集したドイツ諸邦の君主や将官の見守るなか、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は「連合したドイツ諸邦と諸自由都市の要請に従って」ドイツ皇帝に即位しました。ここに長年にわたるドイツの諸邦分立状態は終わりを告げ、ドイツ第二帝国(第二帝政)が創建されました。第二帝国は、22の君主国とハンブルク、ブレーメン、リューベックの3自由都市、それにフランスから獲得したアルザス・ロレーヌ直轄領からなる連邦国家でした。
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