SSブログ

第一次世界大戦勃発 [歴史]

 1914年6月28日に起こったサラエヴォ事件以後、ヨーロッパの国際政局は、いっきょに緊張しました。翌7月5日、オーストリアの打診に対して、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が無条件の支持を確約しました。これに勢いを得たオーストリアは対セルビア強硬政策を推し進め、同月23日には48時間の期限つきで、セルビアに最後通牒を送りました。その内容は、サラエヴォ事件の責任はセルビア政府にあると断じ、セルビア国内での反オーストリア的運動の禁止を要求するものでした。しかし、セルビアはこれを拒否、両国の開戦はもはや避けられなくなっていました。この事態を憂慮したイギリスは、同月26日、危機打開策として英仏露独伊5カ国の外相会談の開催を提唱しましたが、ドイツの反対で開催にはいたりませんでした。同月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告をし、戦いの火ぶたが切られました。
 開戦3日後の7月31日、ロシア皇帝ニコライ2世は全土に総動員令を発し、フランスもドイツに対する開戦準備を整えます。これに対してドイツは、8月1日にロシア、3日にはフランスに宣戦布告、一方、ドイツの同盟国イタリアは、オーストリアとの領土問題から2日に中立宣言を発し、事実上、三国同盟から離脱しました。唯一態度を保留していたイギリスも、3日にドイツがフランスを攻撃するためにベルギーの中立を侵犯すると、それを口実として、翌4日、ドイツに宣戦布告します。こうしてヨーロッパ列強は、あいついで大戦へとなだれこんでいきました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

サラエヴォ事件 [歴史]

 1914年6月、バルカン半島オーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)併合領ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サラエヴォで、オーストリア陸軍大演習が行われました。それを観閲するために訪問中の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、28日、南スラヴ人の解放を唱える「青年ボスニア党」メンバーでボスニア出身のセルビア人青年ガブリロ・ブリンツィプに、白昼、射殺されました。大公夫妻は観閲式の帰途中、市内の通りで発射された2発の弾丸により、大公妃は即死、病院に運ばれた大公も十数分後に亡くなりました。大公は50歳、大公妃は43歳でした。
 フランツ・フェルディナント大公は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(84歳)の甥でしたが、皇太子と、皇帝の実弟である父の死去にともない、帝位継承者となっていました。大公は帝国の衰退を憂い、オーストリア=ハンガリー帝国に南スラヴ諸民族を加えた三重帝国による連邦国家への再編などを構想していたところ、1908年に併合したばかりのボスニアで、民族主義者によって暗殺されました。
 このサラエヴォ事件直後、プリンツィプら7人の暗殺関係者の背後関係が調査され、通称「黒手組」とよばれる大セルビア主義を掲げる秘密組織「統一か死か」などの存在が指摘されました。しかし、はっきりした証拠もなく、セルビア政府の関与についても確証は得られませんでした。
 地図・図版など詳細は、は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第2次バルカン戦争 [歴史]

 1913年5月30日、第1次バルカン戦争のロンドン講和条約が締結されました。これにより、トルコ(オスマン帝国)は、クレタ島と、イスタンブルを除くヨーロッパ側の領土の大部分を割譲することになりました。しかし、バルカン同盟諸国では獲得した領土の帰属をめぐって意見の対立が生じました。オーストリアの介入でアドリア海への出口を失ったセルビアがその代償として中部マケドニアの領有を主張し、ギリシア・ブルガリア間でもマケドニアでの国境画定交渉が行き詰まり、緊張がたかまりました。
 1913年6月29日、前夜からこの日にかけて、ブルガリア軍がマケドニアのゲヴゲリでセルビア軍を攻撃、さらに翌日、テッサロニキ北東のセレでギリシア軍へも攻撃し、バルカン諸国は第2次バルカン戦争に突入しました。しかし、この月の1日に秘密同盟を結んでいたギリシアとセルビアは反攻に転じ、モンテネグロ、ルーマニア、トルコもブルガリアに宣戦しました。四面楚歌になったブルガリアは、翌7月30日に休戦を求め、8月10日、ルーマニアのブカレストで、ブルガリアが領土割譲を約したブカレスト講和条約が締結されました。
 この条約により、ギリシアはテッサリア・エルピス・南部マケドニアを、セルビアは北部・中部マケドニアとノヴィ・パザル地方を得ました。それに対して、ブルガリアは西部トラキアと東部マケドニアを得るだけで、第1次バルカン戦争で得た多くの領土を失いました。
 2次にわたるバルカン戦争の結果、トルコの衰退がいよいよ決定的となり、ブルガリアの孤立も顕著となりました。それに対して、勢力を拡大したのがロシアを背景とするセルビアなどパン=スラヴ主義の勢力でした。そのため、トルコやブルガリアはしだいにオーストリア・ドイツに接近しました。このようなバルカン地域の情勢のなかで、ヨーロッパの大国の利害関係がからみ、しだいに危険な情勢となっていきました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第1次バルカン戦争が終わる [歴史]

 1912年10月17日、オスマン帝国とバルカン同盟との第1次バルカン戦争が始まりました。そして、翌11月には、はやくもオスマン帝国の劣勢が明らかとなりました。地理的にオスマン軍主力と対峙していたブルガリア軍は、11月3日にはオスマン軍を破り、オスマン帝国の首都イスタンブルから40kmにまで進軍します。セルビア軍はオスマン軍を撃破して南下、マケドニア諸地域を攻略し、同じく3日にはアルバニアを経由してアドリア海にまで到達します。またギリシア軍は北上し、11月9日には、マケドニア南部の中心地テッサロニキを占領します。
 劣勢のオスマン帝国は、1912年11月3日、フランスとオーストリアに仲裁を依頼しましたが、同日、ロシアはブルガリアのイスタンブル占領に警告を発します。11月19日、バルカン同盟諸国が講和条件として、オスマン帝国のヨーロッパ側領土からの全面撤退を要求しました。戦況はその後、膠着状態に入りましたが、12月3日、ギリシアを除く他の3国とオスマン帝国が休戦協定を締結、16日からロンドン講和会議が始まりました。
 講和を話し合うロンドン会議は、翌1913年2月に戦闘が再開され一時中断しましたが、4月に再度休戦し5月30日にはロンドン条約が締結されました。この条約では、オスマン帝国がエーゲ海沿岸エノス(エネズ)と黒海沿岸ミディア(ミディエ)を結ぶ線以西の領土と、クレタ島を放棄することを規定しています。オスマン帝国は、イスタンブルを除くヨーロッパ側の領土の大部分を割譲することになりました。なお、アルバニアはこの戦争のさなかに独立を宣言し、同年5月に国際的に承認されました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第1次バルカン戦争が始まる [歴史]

 1908年の青年トルコ革命以降、オスマン帝国の中央集権的な「オスマン化」政策はバルカン諸国に強い反発をまねきました。1911年7月の第2次モロッコ事件で列強の目がモロッコに向けられているすきをついて、9月リビア進出をもくろむイタリアがオスマン帝国に対して宣戦布告し(イタリア=トルコ戦争)、同年10月リビア上陸に成功しました。この戦争をきっかけとして、バルカン諸国も対オスマン帝国でまとまりをみせはじめました。それまでオスマン帝国領マケドニア(現在の独立国北マケドニア)をめぐって対立してきたセルビアとブルガリアは、バルカン半島での影響力拡大をねらうロシアの後押しで、1912年3月13日に友好同盟条約を締結しました。つづいて、5月にはギリシアがブルガリアと、モンテネグロが9月にブルガリアと、つづいてセルビアと友好同盟条約を結び、ここに4国の対オスマン帝国のバルカン同盟が形成されました。
 1912年8月オスマン帝国領マケドニアでアルバニア人が暴動を起こすと、10月17日、この月の8日すでにオスマン帝国と戦端を開いていたモンテネグロに続き、セルビアとブルガリアがオスマン帝国に宣戦布告しました。19日にはギリシアも宣戦布告、バルカン同盟諸国とオスマン帝国との第1次バルカン戦争が始まりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

清朝最後の皇帝、溥儀が退位 [歴史]

 1912年2月12日、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀(6歳)が、辛亥革命後に総理大臣となった袁世凱によって退位に追い込まれました。ここに、約270年におよぶ満州族支配と、中国数千年にわたる専制王朝支配体制は、終焉を迎えました。
 前年1911年12月29日、南京で開催された17省代表者会議で、孫文は得票総数17票のうち16票を得て、臨時大総統に選出されました。さらにこの会議では年号を改め、太陽暦の採用を決定、旧暦11月13日を中華民国元年1月1日としました。同日、上海から南京に到着した孫文は、夜10時すぎに正式に臨時大総統に就任、ここに共和政の中華民国が成立しました。
 しかし、列強が袁世凱を公然と支持している事態を受け、孫文は1月22日、「清朝皇帝が退位し、袁世凱が共和政に賛成すれば、臨時大総統の地位を譲る」との声明を出しました。そこで袁世凱は、この日2月12日、軍を率いて北京に入城し、宣統帝に退位を迫りました。
 翌13日、孫文は臨時大総統を辞任し、袁世凱に南京に来て大総統に就任するように求めますが、袁世凱は口実をもうけて応じず、翌3月10日に、北京で大総統に就任します。
 なお、この年1912年は日本にとっても時代の区切りとなりました。7月30日、明治天皇が心臓麻痺により逝去されたことが宮内省より発表されました。享年59歳でした。ただちに皇太子嘉仁(よしひと、33歳)が皇位を継ぎ、元号を「大正」と制定、新しい時代が始まりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

辛亥革命 [歴史]

 1911年10月10日、夜10時過ぎ、孫文の意向をくむ清朝湖北新軍の革命派5,000人余りが、湖北省省都の武晶で蜂起しました(武晶起義)。この武晶起義が、辛亥革命の口火となりました。翌11日の早朝、革命軍は湖広総督の役所を攻撃、武晶を解放し、湖北軍政府の樹立に着手します。その夜には、漢陽の新軍が、12日早朝には漢口の新軍も決起しました。こうして、長江中流域の要衝である武晶・漢陽・漢口の武漢三鎮は、革命軍によって解放されました。
 この武晶起義の成功は、崩壊寸前にあった清朝に打撃となり、革命の動きは各地に広がります。そして同年11月末までに、全国24省のほぼ3分の2にあたる14省が清朝の支配から離脱し、独立を宣言します。同月30日には中国革命派の各省代表者会議が開催され、革命政府樹立を目標に中華民国臨時政府組織大綱を採択しました。
 孫文は起義の2日後、起義成功のニュースをアメリカ・コロラド州デンヴァーの宿舎で、朝食時に目にした新聞で知ります。彼は、いそぎ資金集めのためにヨーロッパをまわり、同年12月25日に上海に戻りました。同月29日、南京での17省代表者会議で、孫文は中華民国臨時大総統に選出されました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

幹線鉄道国有化問題から辛亥革命へ [歴史]

 1911年5月20日、同月9日に鉄道国有令を公布した清朝政府が、川漢鉄道など二つの民営鉄道(四川の省都成都から湖北省の省都武晶を経由して広東省の省都広州にいたる)を国有化し、その買収と鉄道建設のために英独仏米四国銀行団から600万ポンドを借款しました。清朝政府は、列強からの借款によって、その支配の延命をはかるために、自国の鉄道利権をいわば抵当にいれました。
 しかし、国有化の対象とされた2鉄道は利権回収運動など、ナショナリズムの高揚のなかで設立された民営鉄道会社によって建設されつつあったものです。しかもこの決定は、当事者である鉄道会社や、立法諮問機関である資政院・諮議局とも協議することなく行われました。
 鉄道建設予定地の四川・湖北・湖南・広東の各省の株主や一般民衆は、保路同志会などの団体を結成して鉄道国有化反対運動をすすめました。ことに四川省において、反対運動が激化し、納税拒否や商店の一斉休業、学生のストライキなどに発展しました。それに対して清朝政府は、1911年9月7日四川省総督が鉄道国有化反対運動の責任者11名を逮捕し、釈放請願の群衆に対して軍隊が発砲して、死者30余名を出しました。
 1911年4月27日、中国同盟会のメンバーによる武装蜂起は失敗に終わりましたが(黄花崗事件)、それから半年、幹線鉄道国有化問題に対する反対運動の高まりもあって、10月10日、辛亥革命が始まりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

辛亥革命へ [歴史]

 1907年になると、反清武装蜂起はますます広がりをみせ、この年、中国同盟会は5度の大規模な反清武装蜂起を起こしますが、いずれも失敗に終わります。しかし、清朝政府にとって革命勢力は無視出来ない大きな脅威となりました。この年の武装蜂起の動きのなかで、秋瑾の蜂起未遂事件が有名です。
 秋瑾は中国最初の女性革命家で、「秋風秋雨人を愁殺す」の詩句で有名です。秋瑾は反清民族主義に目覚め、1904年に夫と家を捨てて日本に留学し、中国同盟会に参加しました。1906年に中国に戻ってからも革命運動に参加していました。その年の7月にはいると、反満州族感情の強い革命結社光復会系の人びとが単独で呉・越地方で武装蜂起を計画、蜂起の当日の7月13日、計画を暴いた清朝政府は、首謀者として秋瑾を逮捕し、2日後に秋瑾を処刑しました。享年32歳でした。
 このころから、新たな問題が反清感情を刺激します。それは幹線鉄道を国有化し、外国からの借款によって鉄道建設をすすめる計画です。外国からの利権を回収して民営の鉄道建設をおこなおうとしていた民族資本家や地方有力者は、この計画に猛反対します。しかし、1909年6月6日、清朝政府は英独仏の3カ国と湖広鉄道借款契約を結びます。さらに、翌1910年になると、5月23日、清国に対する英独仏の3カ国銀行団がアメリカの参加を承認し、四国銀行団が成立し、11月10日、四国銀行団はロンドン協定を結び、湖広鉄道を除く全中国の鉄道借款に平等に参加することを決定しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

中国同盟会が結成される [歴史]

 1905年8月20日、漢民族主義を掲げ、反清朝革命を主張する革命結社の諸団体が一致団結し、日本の東京で孫文を代表とする中国同盟会を結成しました。この結成大会には、亡命者や留学生など約100人が集まりました。11年前の1894年に孫文により結成された興中会以降、2年前の浙江の光復会、湖南の華興会など、これまで結成された反革命結社は、地域的な影響力しかもちえませんでした。そこで、この日、これらの3団体が大同団結をはたしました。
 同盟会は「満州王朝の駆除、中華の回復、民国創設、地権の平均」の4大綱領を掲げ、反清武装蜂起を計画するとともに、機関誌「民報」を通じて革命思想の普及に努めました。その成果で、加盟者は1年たらずのあいだに、学生や知識人のみならず、軍人、商工業者、華僑など約1万人にものぼりました。「民報」誌上では、さまざまな論争を通して、独自の革命理論である「民族・民権・民生」の三民主義がさかんに宣伝され、その思想は中国全土に広まっていきました。
 翌1906年10月19日には中国同盟会が湖南省で満人駆逐・中華回復・共和国建設などのスローガンを掲げて蜂起しました。また、12月4日には江西省や湖南省で炭鉱労働者6,000人、7日には湖南省で、民間革命結社の指導で蜂起しました。しかし、いずれの蜂起も清朝軍によって鎮圧されました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0)