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奴隷解放宣言 [歴史]

 1862年7月2日、連邦議会は1,100万エーカー(約445万ヘクタール)の国有地を州に与え、その売却収入で州が農業大学を設立するという、モリル法を制定しました。これらの大学はやがて州立大学になります。
 同年9月22日、リンカン大統領が、奴隷解放予備宣言を布告しました。これは、南部連合(アメリカ連合国)の奴隷は翌年1月1日を期して自由になることを宣言したものです。
 1863年1月1日、リンカン大統領は奴隷解放令に署名しました。これによって、連邦(アメリカ合衆国)に敵対するすべての州と地方の奴隷、約400万人が永久に奴隷の身分から解放されることとなりました。北部諸州では、この瞬間を待ち望んでいた多くの黒人や奴隷解放論者が、前夜から各地の教会や新聞社に集まりだし、ホワイトハウスから発表される宣言文に歓声をあげました。
 しかし、この宣言は連邦を支持する4つの境界州と、すでに連邦に占領されている南部地域とに属する約80万人の奴隷には適用されませんでした。あくまでも南北戦争下での軍事戦略上の必要から公布されたものだからです。また、南部連合州の多くの奴隷には、この宣言文は届きませんでした。合衆国全土の黒人奴隷が、事実上解放されるのは、1865年に憲法修正第13条が成立してからになります。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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北軍、ニューオーリンズ占領 [歴史]

 南北戦争が始まって10ヵ月が過ぎた1862年2月25日、連邦議会は南北戦争の戦費調達に困った財務省に対して、1億5,000万ドルの法定不換紙幣の発行を認めます。翌年にも追加発行を認めますが、その後、この不換紙幣回収問題が大きな政治問題になります。
 戦争開始後、まる1年たった4月16日、南部連合(アメリカ連合国)は徴兵令を発します。一方、北軍(連邦軍)はこの時期、ミシシッピ川河口の南部最大都市ニューオーリンズの攻略をうかがっていました。北軍最強の艦隊40隻は4月24日、ニューオーリンズを防衛するジャクソン要塞とセント・フィリップ要塞を占領、無防備となったニューオーリンズでは大混乱のなか、ルイジアナ州知事をはじめ南部連合の役人は次々と逃亡を開始しました。26日早朝、北軍は市街に攻め入り、造幣局屋上にアメリカ合衆国国旗を掲げ、占領戦に終止符を打ちました。その後の北軍による略奪や放火により市の被害は、1,000ドルを超えたといわれます。
 同年5月20日、連邦議会が自営農地法(ホームステッド法)を制定します。この法律によると、成年に達した者はだれでも、1人当たり160エーカー(約65ヘクタール)の国有地が無償で与えられ、5年間その土地に居住し耕地を開拓すれば、自分のものとすることができることになります。これにより、西部開拓がおおいに進むとともに、連邦(アメリカ合衆国)の影響力が西部におよぶことになりました。
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南北戦争、長期化へ [歴史]

 1861年4月12日午前4時30分、南部連合(アメリカ連合国)軍が、73名の連邦(アメリカ合衆国)軍が守るサウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞の砲撃を開始し、アメリカ南北戦争が始まりました。要塞の連邦軍は7,000名の南部連合軍による34時間に及ぶ砲撃を受け果敢に防戦しますが、翌13日午後2時30分に降伏します。15日に、リンカンはサムター要塞陥落による愛国的感情の急速な高まりを背景に、南部連合の反乱鎮圧と連邦維持のため、期間3ヵ月の志願兵7万5,000人を募ります。17日ヴァージニア州が連邦を脱退し、ついでアーカンソー、ノースカロライナ、テネシーの各州が脱退、6月8日までに南部連合は11州となります。4月19日、リンカンは南部連合に対する海上封鎖を命じます。
 7月21日のヴァージニア州のブル・ラン川の戦いで、北(連邦)軍が南(南部連合)軍に惨敗したことにより、連邦議会は長期戦を見通し大軍の動員に努めるとともに、8月5日連邦政府は陸海軍への資金捻出のために、はじめて所得税を課します。11月8日、北軍がイギリス船トレント号に乗船中の南軍使節を逮捕します。このため、イギリスが抗議して連邦の対英関係が悪化しますが、翌月に釈放して解決します。こうして、こののち南北戦争は4年に及ぶ大戦争に拡大していきます。
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南北戦争が勃発 [歴史]

 1860年11月6日の米大統領選挙で当初劣勢を伝えられていたリンカンは、民主党の分裂に助けられて大統領に当選しました。しかし、同年12月20日、サウスカロライナ州が、共和党候補の大統領当選に反発して、連邦脱退を宣言しました。その後、リンカン大統領に反対する南部7州は翌1861年2月アラバマ州のモンゴメリーで南部連合(アメリカ連合国)を結成し、ジェファソン・デーヴィスを臨時大統領に選びました。そして、南部連合はその領域内の兵器庫を占領しました。
 これに対し、リンカンは、同年3月4日の就任演説で、連邦を守るうえから南部諸州の分離は違法であり、武力行使は反乱であるとし、分離諸州にある連邦財産と所有地の保全を言明しました。また、リンカンは、連邦側からの先制攻撃で内戦が始まることを回避するように努めました。そのため、同年4月6日、リンカンはサウスカロライナ州知事に、連邦軍が守備する同州チャールストン港のサムター要塞には食糧と水を補給するが武器は補給しない旨を通告しました。それは、南部連合がもし連邦軍の補給艦を攻撃すれば、開戦の口実となり、黙認して補給を許せば南部連合の面目を失わせる、と考えたうえのことでした。同年4月12日午前4時30分、補給艦が航行中のなか、南部連合軍はサムター要塞を攻撃し、南北戦争が始まりました。
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