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日露戦争勃発 [歴史]

 1903年12月、日本政府は日露開戦必至とみて連合艦隊を組織し、東郷平八郎を司令官に任命しました。翌1904年2月8日、2日前に佐世保を出発した日本の連合艦隊の一部が朝鮮の仁川に到着し、ロシア軍艦2隻を排除、韓国の首都漢城を占領するために陸軍派遣隊2,200人を上陸させました。一方、連合艦隊の主力は同日夜半過ぎ、中国遼東半島の旅順港外でロシア艦隊を攻撃、主力艦3隻を大破、日露戦争が始まりました。
 満州(現在の中国東北部)と朝鮮半島の権益をめぐる日露間の交渉は暗礁に乗り上げ、日本国内には主戦論が高まりました。そうしたなかで、元老や関係閣僚を集めた緊急御前会議は2月4日に開戦を決定しました。しかし、ロシアに正式の宣戦を布告するのは、開戦の2日後の2月10日のことになります。
 開戦当初、ロシア軍は日本軍を迎え撃つ準備に終始し、本格的な戦闘は同年5月、朝鮮半島を北上した日本第1軍の鴨緑江渡河作戦と海軍の旅順港閉塞作戦から始まります。当初、日本軍は満州に兵力を集中してロシア軍主力との決戦をめざしますが、バルチック艦隊の極東への回航が明らかになりました。そのため、6月に満州軍総司令部(総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎)が編制され、第1、2,4軍がロシア軍前面にあたり、第3軍はバルチック艦隊到着前に旅順港を奪取する任務に振り向けられました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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アメリカ、パナマ運河建設へ [歴史]

 ロシア領のチタから、清国領である満州を横断し、日本海のロシア港市ウラジオストクを直線的に結ぶ東清鉄道が1903年7月全線での正式営業が始まりましたが、その同じ年の11月3日、アメリカの後押しでパナマがコロンビアからの独立を宣言し、パナマ共和国が誕生しました。
 その2年前に米大統領に就任したセオドア=ルーズヴェルトは、大西洋と太平洋を結んで商船や軍艦を往来させるために、パナマ運河建設にのりだしました。この年1903年1月、一時金1,000万ドル、年間賃貸料25万ドルの条件で、コロンビア政府に運河用地の貸与を同意させ、両国は運河条約に調印しました。しかし同年8月にコロンビア議会が批准を拒否したため、ルーズヴェルトと国務長官ジョン=ヘイは、独立派パナマ人とひそかに連絡をとりはじめました。そして独立宣言の前日、軍艦を大西洋の要港コロンに派遣、500人のコロンビア守備隊を捕虜にして、パナマ「独立」を助けました。アメリカは3日後に独立を承認、18日にはパナマ運河条約を結び、運河地帯の永久租借権を得ます。運河は第一次世界大戦が勃発した1914年7月の翌月、8月15日に開通します。
 同じ1903年12月28日、日本では日露開戦必至とみた山本権兵衛海相は連合艦隊を組織し、東郷平八郎を司令官に任命しました。
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ロシア、東清鉄道全線開通させる [歴史]

 1902年日英同盟条約が調印されました。この条約はイギリスの清国での利益と、日本の清国と韓国での利益確保をおもな目的としていました。この条約が調印された翌年の1903年7月1日、ロシアが敷設権を得て建設をすすめてきた、東清鉄道の全線での正式営業が始まりました。東清鉄道は、ロシアと清国との国境であるアムール川沿いを通るシベリア鉄道に対して、清国領である満州を横断し、チタから日本海の港市ウラジオストクを直線的に結ぶものでした。
 1896年、ロシアは、皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席するため訪露中の清国の李鴻章と交渉し、東清鉄道の建設を承認させました。1898年に着工し、1902年1月には満州里からハルビンを経由する本線が完成しました。
 ロシアは東清鉄道着工の直前に締結した遼東半島租借条約で、清国にハルビン・大連・旅順間の鉄道敷設を認めさせていました。これが東清鉄道の南部支線で、1903年1月に完成し、同年7月全線営業開始となりました。なお、日露戦争後、南部支線の長春・旅順間は日本に譲渡され、日本は1906年、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立し、中国大陸進出の足がかりにしていきます。
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日英同盟が結ばれる [歴史]

 1903年12月17日、アメリカ合衆国ノースカロライナ州キティホークの砂丘でライト兄弟が、自作の飛行機で人類初の動力飛行に成功しましたが、その前年の1902年に、日英同盟が結ばれ、日本は対外膨張へ突入していくことになります。1902年1月30日、イギリス外相ランズダウンと林駐英公使がイギリス外務省で日英同盟条約に調印し、即日発効しました。
 1899年中国山東省で義和団を中心に排外運動がおこり、1900年には、列国公使館が清国兵や民衆に包囲されました。この事態に、清国が列国に宣戦を布告したため、日本など列国は軍隊を派遣し、乱を鎮圧するとともに翌1901年北京議定書が調印され、清国は北京にどに列国の守備兵を置くことを認めました(義和団事件)。ところが、ロシアは事件が収まったのちも十数万の軍隊を満州にとどめ、事実上満州を軍事占領し、さらに南下して韓国を勢力下におこうとする気配をみせました。
 こうした、東アジアへのロシアの脅威が増した2年ほど前から、南アフリカ戦争の渦中で余力のないイギリスは「光栄ある孤立」政策を捨て、韓国を勢力下におこうとする日本に接近しました。日本国内では日露協商を説く伊藤博文らとの確執がありましたが、この日の調印を迎えました。条約はイギリスの清国での利益と、日本の清国と韓国での利益をおもな目的としていました。
 日本では、列強と結んだはじめての対等条約として、公示された2月なかばから祝賀の催しが各地で開かれ、東京では提灯行列が行われました。
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ライト兄弟、人類初の動力飛行に成功 [歴史]

 1903年12月17日、アメリカ合衆国ノースカロライナ州キティホークの砂丘で、ウィルバー=ライトとオーヴィル=ライトの兄弟が、自作の飛行機フライヤー1号で人類初の動力飛行に成功しました。
 オハイオ州で自転車製造業を営むライト兄弟は、1896年に墜落死したドイツの先駆的な飛行家オットー=リエンタールに触発され、空を飛ぶ夢をふくらませ、自転車工場の新しい製品として、飛行機を開発しようとしました。兄弟は1899年にワシントンにある科学啓発団体スミソニアン協会を通じて資料を入手、飛行機の製作に着手しました。
 複葉の凧(たこ)の製作から始めた兄弟は、1900年には人間の乗るグライダーを製作、さらに、主翼の形を決め、昇降舵、方向舵、主翼ねじり(補助翼)の3舵翼を備えた第3号グライダーを開発しました。1903年、軽いエンジンと効率の良いプロペラを工夫した兄弟は、人類初の動力飛行機フライヤー1号を完成させました。
 1903年12月17日、この日、初飛行を試みたのは弟のオーヴィルで、強風のなかを高度3m、約36m、滞空時間12秒、飛行しました。兄ウィルバーの行った4回目の実験が、この日の最長の飛行となり、約260m、59秒を記録しました。それから5年後、ライト兄弟が政府の役人の前でデモンストレーション飛行を行ってから、飛行機熱は一気に高まり、自作の飛行機による飛行大会が流行します。なお、兄弟が考案した「主翼ねじり」は飛行機史上画期的な発明で、その原理は補助翼として現在も残っています。
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