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デンマーク戦争 [歴史]

 1863年3月デンマーク国王フレデリク7世が、シュレスヴィッヒをホルシュタインから分離して、デンマークに事実上併合する勅書を発しましたが、同年11月15日にフレデリク7世は亡くなりました。新国王に即位したクリスティアン9世は同月18日、シュレスヴィッヒ併合に関する新憲法を認め、併合が発効しました。
 デンマークが新憲法を制定し、シュレスヴィッヒ併合を宣言したことで、ドイツ人が多く居住するシュレスヴィッヒとホルシュタイン両公国に緊張が高まりました。シュレスヴィッヒ在住のドイツ人からの支援要請を受けたプロイセンが、1850年の議定書に違反するとしてオーストリアを誘い、翌1864年1月16日、デンマークに最後通牒を発し、新憲法の停止を求めると、デンマークは他のヨーロッパ諸国の支援を当てにしてこれを拒絶しました。同年2月1日、プロイセン・オーストリア両軍がシュレスヴィッヒに進撃し、デンマーク戦争が始まりました。しかし、デンマークがあてにしていたヨーロッパ諸国は動かず、4月18日デンマーク軍の要衝デュッペル要塞の攻防戦にデンマーク軍は敗れ、戦争の帰趨は決しました。
 1865年8月14日、デンマーク戦争に勝利したプロイセンとオーストリアはガスタイン協定を結び、プロイセンがシュレスヴィッヒを、オーストリアがホルシュタインをそれぞれ統治することで合意しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題 [歴史]

 シュレスヴィッヒ・ホルシュタインはユトランド半島の基部にあり、北半がシュレスヴィッヒ、南半がホルシュタインです。現在は、両地域ともキールを州庁所在地とするドイツの一州をなしていますが、中世には政治抗争の一つの舞台であり、1460年以降1848年まで統一した公国としてデンマークと同君連合の関係にありました。
 1848年3月デンマーク王がシュレスヴィッヒ併合の強行に出ると、両地域のドイツ系住民は臨時政府を樹立して抵抗を示しました。プロイセンは、臨時政府を支援して同年5月2日デンマークに宣戦して進攻し優勢に戦いをすすめましたが、デンマークを支えるロシアとイギリスの外交的圧力に屈し、マルメー停戦条約を締結しました。
 ドイツのフランクフルト国民議会はいったんは停戦条約を拒否しましすが、1848年9月16日にはプロイセンの処置を認めて承認します。しかし、これでおさまらず抗議する民衆が国民議会の議場のパウロ教会に押しかけると、ドイツ連邦中央政府はプロイセンとオーストリアに軍隊の出動を要請しました。民族的憤激からドイツ各地でデモや蜂起が起き、両地方の帰属をめぐる問題はシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題と呼ばれました。
 こうした歴史をもつ両地域に対して、1863年3月30日デンマーク国王フレデリク7世が、シュレスヴィッヒをホルシュタインから分離して、デンマークに事実上併合すね勅書を発しました。
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ビスマルクの登場 [歴史]

 サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世がイタリア国王に即位した1861年3月の前月、2月1日、プロイセンでは、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の死去にともない、摂政だったヴィルヘルム1世が跡を継ぎ国王となりました。新国王が軍制改革を推し進め軍事大国化を目指すことに対抗して、議会主義政治を志向するドイツ進歩党が同年6月9日結成されました。そして同年12月に実施されたプロイセン議会下院選挙で、進歩党は109議席を獲得して一躍第一党となりました。国民の支持を得た進歩党は、政府の軍制改革計画と対決していきます。
 翌1862年9月24日、前駐仏大使オットー・フォン・ビスマルクはヴィルヘルム1世によって首相に任命されました。生粋のユンカー(土地貴族)である彼は、忠実な臣下として議会主義の台頭に身を挺して闘うことを誓いました。おりしも、陸軍の増強を骨子とする軍制改革法案をめぐり、王権と議会の対立が激化していました。自由主義多数派からなる議会は、国家予算からいっさいの軍制改革費の削減を主張していました。
 ビスマルクは同年9月30日の予算委員会で、「・・・言論や多数決によっては現下の大問題(注 ドイツ統一)は解決されないのであります。・・・鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります」と、有名な「鉄血演説」を行い、憲法を無視し、議会を停会したまま統治を続行しました。
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イタリアの統一 [歴史]

 ガリバルディ軍が1860年8月19日にイタリア半島の南端に上陸すると、ブルボン王家は逃亡し両シチリア王国政府は崩壊しました。そして、同年9月7日にガリバルディはナポリに入城し、南イタリアの実質的な支配者となりました。
 この事態に、南イタリアの無政府状態と、1849年以来フランスの保護下にあるローマへのガリバルディ軍の攻撃を恐れて、サルデーニャ軍が介入しました。サルデーニャ軍はカステルフイダルドの戦いで教皇軍を破り、1860年9月アンコナで降伏させました。さらに、10月1~2日ナポリ北方のヴォルトゥルの戦いにサルデーニャ軍は勝利しました。
 1860年10月26日、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディは密約を結びました(ティアーノの握手)。そして、両シチリア王国でサルデーニャへの合併を支持する国民投票がおこなわれた後、ガリバルディはすべての権力を放棄しました。翌1861年3月17日、サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が、首都トリノでイタリア国王に即位しました。ここに、北はアルプス山脈から南はシチリア島にいたるまで、イタリア半島を貫く地域がほぼ統一されました。ただ、フランスが軍隊を残したローマと、オーストリアの支配下にあるヴェネツィアは、これに含まれていません。
 ヴェネツィアは、1866年6月9日に勃発したプロイセン・オーストリア戦争にオーストリアが敗北したために、プロイセンと同盟していたイタリアがが同年10月3日併合しました。ローマは1870年7月19日に始まったプロイセン・フランス戦争に乗じて、同年9月20日イタリア王国軍がローマに進軍し占領しました。これによりイタリア統一が完成し、翌1871年、首都をローマに移しました。
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