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シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題 [歴史]

 シュレスヴィッヒ・ホルシュタインはユトランド半島の基部にあり、北半がシュレスヴィッヒ、南半がホルシュタインです。現在は、両地域ともキールを州庁所在地とするドイツの一州をなしていますが、中世には政治抗争の一つの舞台であり、1460年以降1848年まで統一した公国としてデンマークと同君連合の関係にありました。
 1848年3月デンマーク王がシュレスヴィッヒ併合の強行に出ると、両地域のドイツ系住民は臨時政府を樹立して抵抗を示しました。プロイセンは、臨時政府を支援して同年5月2日デンマークに宣戦して進攻し優勢に戦いをすすめましたが、デンマークを支えるロシアとイギリスの外交的圧力に屈し、マルメー停戦条約を締結しました。
 ドイツのフランクフルト国民議会はいったんは停戦条約を拒否しましすが、1848年9月16日にはプロイセンの処置を認めて承認します。しかし、これでおさまらず抗議する民衆が国民議会の議場のパウロ教会に押しかけると、ドイツ連邦中央政府はプロイセンとオーストリアに軍隊の出動を要請しました。民族的憤激からドイツ各地でデモや蜂起が起き、両地方の帰属をめぐる問題はシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題と呼ばれました。
 こうした歴史をもつ両地域に対して、1863年3月30日デンマーク国王フレデリク7世が、シュレスヴィッヒをホルシュタインから分離して、デンマークに事実上併合すね勅書を発しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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