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ロシア農奴解放令 [歴史]

 1861年4月、アメリカ合衆国で最大の内戦である南北戦争が始まりました。そして、1863年1月にはリンカンによって、奴隷解放宣言がだされました。それと同じ頃、ロシアでも皇帝アレクサンドル2世による近代化を図る「大改革」が開始されました。1853年に勃発したクリミア戦争で英仏に敗北したことにより、ロシアの後進性が明らかになり、その戦争中に即位したアレクサンドル2世は国内の「大改革」を開始しました。その改革の一つとして、1861年3月3日、皇帝は農奴解放令を発布しました。
 農奴解放令により、ロシアの近代化をはばみ、長年にわたり農民の自由を奪ってきた農奴制に終止符が打たれました。しかし、改革に抵抗する貴族を前に、皇帝は「朕が農民に自由を与えようとしているとのうわさが流れている。これは正しくない。しかし、農民とその領主とりあいだには、不幸にも敵対関係が存在しており、すでにこれが原因で領主に対する不服従の例がいくつか生じている。朕は遅かれ早かれ、われわれがこのことに決着をつけねばならないと確信している。それならば、下からよりも上からこれを行うほうがはるかによいのである」と演説しています。ここには保守主義者としての皇帝の姿勢がみえています。こうして、農奴解放令により、約2,250万人の農奴は解放され、「自由な農民」となりました。
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ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟 [歴史]

 1882年5月20日、ドイツ・オーストリア・イタリアのあいだで三国同盟条約がウィーンで調印されました。この条約は、三国以外の国から攻撃された場合にかぎり三国の相互軍事援助を定めました。このことは、この条約が基本的に三国の安全とヨーロッパの現状維持を目的とする防御同盟であることを示しています。この条約の有効期限は5年で、4回更新され第一次世界大戦中にイタリアが離脱するまで存続しました。
 この条約締結を推し進めたドイツのビスマルクの真のねらいは、対ドイツ復讐心に燃えるフランスを国際的に孤立させることにありました。そのため、前年1881年6月にドイツ・オーストリア・ロシアのあいだに三帝同盟を復活させ、この年1882年、フランスがチュニジアを保護領としたことでイタリアの反フランス感情が高まったことを巧みに利用し、同盟を結びイタリアもドイツ側につけることに成功しました。こうして、三帝同盟と三国同盟により、フランスの国際的孤立はほぼ完全なものとなりました。これは「五つの毬(まり)を同時に手玉にとる」といわれた、ビスマルクの卓越した外交手腕の成果でした。
 しかし、この三国同盟は内部に大きな問題をかかえていました。それは、オーストリアとイタリアの間の、南チロル地方やトリエステなどの帰属をめぐる領土紛争、いわゆる「未回収のイタリア」がそれで、それは三国同盟の実質的解体をひきおこす危険性を多分にはらんでいました。そして、後年、この恐れは現実のものとなりました。
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ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟へ [歴史]

 1881年5月12日、チュニジアはフランスに外交・財政面の主権をゆだねるバルドー条約に調印しました。こうしたフランスの侵略に対して、チュニジアでは激しい排斥運動が起こり、やがて武装蜂起にまで発展しました。しかし、これは逆にフランス軍の介入を許す口実になり、フランスは1883年6月にマルサ協定を押しつけて、チュニジアを正式に保護領に組み入れることに成功します。この一連の動きは、イタリアの反フランス感情を高め、それをビスマルクが巧みに利用して、イタリアをドイツ側につけることに成功し、1882年5月20日ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟が成立、フランスの国際的孤立化が一層すすみます。
 ドイツとロシアのあいだでは、ベルリン条約に不満をもつロシアによってドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟が1879年に崩壊しました。チュニジアがフランスの保護国となったバルドー条約調印の翌月の1881年6月18日ドイツ、オーストリア、ロシアのあいだにあらためて三帝協商が結ばれ、三帝同盟が復活強化されました。三国間において、他の大国と交戦する場合の中立の維持、バルカンにおけるオーストリアとロシアの権益の保障が約束されました。これをうけて、同月6月28日、オーストリアとバルカンの中心的な国家セルビアとが秘密裏に政治および通商上の同盟条約を結びました。これはセルビアを事実上オーストリアの保護国とするものでした。こうして、バルカンをめぐるロシアとオーストリアとの対立が徐々に高まっていきます。
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フランス、チュニジアを征服 [歴史]

 チュニジアはヨーロッパと地中海を挟んだ対岸の北アフリカの中央、イタリアのシチリア島とは海峡を挟んだ対岸に位置します。チュニジアの首都チュニスの郊外には古都カルタゴがあります。カルタゴといえば、古代ローマの時代、ローマと西地中海の覇権を争い、3次のポエニ戦争でローマに滅ぼされた都市国家カルタゴがおもいおこされます。そんなわけで、アフリカへのヨーロッパ列強の進出が始まると、イタリアはまず、チュニジアの征服を模索します。一方、フランスもチュニジアの対岸に位置しますので、やはり、チュニジアの支配を狙いました。
 チュニジアでは1873年10月に宰相に就任したハイル・アッディーンが、近代化政策を推進する一方、イギリス・フランス・イタリアの勢力均衡を図ることで独立を維持しようと試みました。しかし、1877年7月に保守派のクーデタにあって失脚しました。その後、チュニジアの支配権をめぐり、イギリス・ドイツから行動の自由を認められたフランスとイタリア両国が激しく争い、最終的にイタリアが譲歩し、フランスはチュニジア征服の機会をうかがうことになりました。1881年3月、フランスはチュニジア派兵を決定、予想を上回る損害をこうむったものの、派兵後3週間でチュニジアを屈服させることに成功しました。こうして、1881年5月12日、チュニジアはフランスに外交・財政面の主権をゆだねるバルドー条約に調印しました。
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