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フランス、チュニジアを征服 [歴史]

 チュニジアはヨーロッパと地中海を挟んだ対岸の北アフリカの中央、イタリアのシチリア島とは海峡を挟んだ対岸に位置します。チュニジアの首都チュニスの郊外には古都カルタゴがあります。カルタゴといえば、古代ローマの時代、ローマと西地中海の覇権を争い、3次のポエニ戦争でローマに滅ぼされた都市国家カルタゴがおもいおこされます。そんなわけで、アフリカへのヨーロッパ列強の進出が始まると、イタリアはまず、チュニジアの征服を模索します。一方、フランスもチュニジアの対岸に位置しますので、やはり、チュニジアの支配を狙いました。
 チュニジアでは1873年10月に宰相に就任したハイル・アッディーンが、近代化政策を推進する一方、イギリス・フランス・イタリアの勢力均衡を図ることで独立を維持しようと試みました。しかし、1877年7月に保守派のクーデタにあって失脚しました。その後、チュニジアの支配権をめぐり、イギリス・ドイツから行動の自由を認められたフランスとイタリア両国が激しく争い、最終的にイタリアが譲歩し、フランスはチュニジア征服の機会をうかがうことになりました。1881年3月、フランスはチュニジア派兵を決定、予想を上回る損害をこうむったものの、派兵後3週間でチュニジアを屈服させることに成功しました。こうして、1881年5月12日、チュニジアはフランスに外交・財政面の主権をゆだねるバルドー条約に調印しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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