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ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟へ [歴史]

 1881年5月12日、チュニジアはフランスに外交・財政面の主権をゆだねるバルドー条約に調印しました。こうしたフランスの侵略に対して、チュニジアでは激しい排斥運動が起こり、やがて武装蜂起にまで発展しました。しかし、これは逆にフランス軍の介入を許す口実になり、フランスは1883年6月にマルサ協定を押しつけて、チュニジアを正式に保護領に組み入れることに成功します。この一連の動きは、イタリアの反フランス感情を高め、それをビスマルクが巧みに利用して、イタリアをドイツ側につけることに成功し、1882年5月20日ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟が成立、フランスの国際的孤立化が一層すすみます。
 ドイツとロシアのあいだでは、ベルリン条約に不満をもつロシアによってドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟が1879年に崩壊しました。チュニジアがフランスの保護国となったバルドー条約調印の翌月の1881年6月18日ドイツ、オーストリア、ロシアのあいだにあらためて三帝協商が結ばれ、三帝同盟が復活強化されました。三国間において、他の大国と交戦する場合の中立の維持、バルカンにおけるオーストリアとロシアの権益の保障が約束されました。これをうけて、同月6月28日、オーストリアとバルカンの中心的な国家セルビアとが秘密裏に政治および通商上の同盟条約を結びました。これはセルビアを事実上オーストリアの保護国とするものでした。こうして、バルカンをめぐるロシアとオーストリアとの対立が徐々に高まっていきます。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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