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ドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟 [歴史]

 1882年5月20日、ドイツ・オーストリア・イタリアのあいだで三国同盟条約がウィーンで調印されました。この条約は、三国以外の国から攻撃された場合にかぎり三国の相互軍事援助を定めました。このことは、この条約が基本的に三国の安全とヨーロッパの現状維持を目的とする防御同盟であることを示しています。この条約の有効期限は5年で、4回更新され第一次世界大戦中にイタリアが離脱するまで存続しました。
 この条約締結を推し進めたドイツのビスマルクの真のねらいは、対ドイツ復讐心に燃えるフランスを国際的に孤立させることにありました。そのため、前年1881年6月にドイツ・オーストリア・ロシアのあいだに三帝同盟を復活させ、この年1882年、フランスがチュニジアを保護領としたことでイタリアの反フランス感情が高まったことを巧みに利用し、同盟を結びイタリアもドイツ側につけることに成功しました。こうして、三帝同盟と三国同盟により、フランスの国際的孤立はほぼ完全なものとなりました。これは「五つの毬(まり)を同時に手玉にとる」といわれた、ビスマルクの卓越した外交手腕の成果でした。
 しかし、この三国同盟は内部に大きな問題をかかえていました。それは、オーストリアとイタリアの間の、南チロル地方やトリエステなどの帰属をめぐる領土紛争、いわゆる「未回収のイタリア」がそれで、それは三国同盟の実質的解体をひきおこす危険性を多分にはらんでいました。そして、後年、この恐れは現実のものとなりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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