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ハーグ密使事件から伊藤博文暗殺へ [歴史]

 1907年6月26日、韓国皇帝によるハーグ密使派遣が明らかになりました。オランダのハーグで開催中の第2回万国平和会議に3人の朝鮮人が現れ、大韓帝国皇帝の委任状を示して参加を求めました。彼らの目的は、2年前の1905年に調印された韓国の外交権を奪い保護国とした第2次日韓協約の無効を訴え、日本の侵略行為を列国の前に明らかにすることでした。しかし、日本の保護国となった大韓帝国に外交権はないとして参加を拒否されました。
 万国平和会議事務局からの電報でこのことを知った韓国統監伊藤博文はただちに皇帝高宗を追求、追い込まれた高宗が翌7月20日に退位し、その4日後には各部の次官などの要職を日本人が独占する第3次日韓協約が締結されました。さらに8月1日には韓国軍も解散させられました。その後、解散に不満を抱く兵士たちは、反日武装闘争である義兵闘争に合流していきます。そして、この事件以後、半年にわたり抗日運動が高まりました。
 事件が鎮静化したかにみえた2年後の1909年10月26日午前9時半、ハルビン駅頭で、公爵伊藤博文は3発の銃弾を受けて倒れ、車内で手当てを受けましたが、30分後に死亡しました。68歳でした。狙撃者はその場で取り押さえられ、安重根と名乗る朝鮮人だと判明しました。裁判の過程で、彼はみずから義兵中将と名乗り、韓国統監だった伊藤の暗殺は、独立戦争としての戦闘行為だと主張しました。彼の堂々とした法廷陳述と、さらに愛国心の高まりを恐れた日本は、翌1910年3月に旅順で彼を処刑するとともに、同年8月22日、韓国を併合しました。なお、安重根は韓国では独立の義士といわれています。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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ロシア、国会開会からストルイピン体制へ [歴史]

 1906年5月10日、この日、前年1905年の第1次ロシア革命の成果を受けて、ロシアで最初の国会が開会されました。地主やブルジョアジーに有利な選挙法だったのにもかかわらず、ツァーリ政府に反対する党派が大多数を占め、議長もその中心であるカデット(立憲民主党)から選ばれました。
 この後、ツァーリ政府は、土地改革の要求など、議員たちの激しい政府批判に対して、同年7月21日、国会を解散します。これと同時に国会運営の手腕から内務大臣ピョートル・ストルスピンが首相に就任します。彼は同年11月22日の勅令によってミール(農村共同体)の解体、個人農の創出などの改革にのりだしました。しかし、彼は翌1907年3月に召集された第2国会を解散、選挙法も富裕層優遇に変えました。同年11月14日に開会された第3国会では、反革命派が勢力を盛り返し革命派を弾圧します。こうして、ロシアは第1次ロシア革命からストルイピン体制へと移行していきました。
 ストルイピンの打ち出した最も重要な方策は、私有地をもつ個人農の創設でしたが、改革は難航し、皇帝・保守的地主派と対立しました。そして、1911年9月14日、一説には警察のスパイされる人物によって、狙撃され死去しました。彼は名門貴族の出身で、皇帝の権力を盾に改革を強行し、反動の権化といわれてきましたが、現在は大政治家としての評価が高まっています。彼がすすめていた自営農創設は、ロシア革命直前の1916年の時点で、全農家の22%がミールを離脱しています。
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ロシアで「血の日曜日事件」起こる [歴史]

 ロシアの司祭ゲオルギー・ガポンが1904年に組織した労働組合で、1905年になって組合員が解雇されました。これに対する抗議のストライキが首都サンクトペテルブルク全市に波及すると、ガポンは無権利状態にある自分たちの窮状と、憲法制定会議の開催、政治的な自由、日露戦争の中止、8時間労働などの要求を、直接ツァーリ(皇帝)に訴える請願書の提出を提案しました。これが広く労働者に受け入れられました。
 1905年1月22日、冬宮にいる皇帝ニコライ2世に請願書を届けようと、ペテルブルク市内を行進する約10万人の労働者に対して、要所に配置されていた軍隊が発砲、多数の死傷者が出ました。軍隊と群衆の衝突は市内の10カ所以上で起こり、死者は数百人にのぼりました。これが「血の日曜日事件」です。
 皇帝の肖像を掲げ、イコンを持った労働者の平和的な行進に対するツァーリ政府のこの暴挙は、ロシア各層の憤激をよび、ここに第1次ロシア革命が開始されました。
 革命は、この年1905年10月の全国政治ゼネストでピークを迎え、ツァーリ政府は、市民的な自由と選挙権の拡大などを約束する十月詔書を出すことになります。これによって、ロシアに憲法と国会がもたらされます。
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M8.3地震、サンフランシスコを直撃 [歴史]

 1906年4月18日午前5時13分、サンフランシスコでアメリカ西海岸史上最大級の地震が発生、震動は2分40秒も続きました。その後、6時間にわたり6回の強震が市を襲い、とくに8時45分に発生した3回めの強震は、最大の被害をもたらしました。
 ハイウェーは一瞬にして裂け目が入って分断され、市の大半の建物は粉々になって崩れ落ち、瓦礫の山となりました。さらに大きな被害が、地震に続く火災によってもたらされ、市は一面の火の海と化しました。火災は3日間も続き、ビジネス街を中心として広い範囲が完全に焼け落ちました。25万人の市民が家屋を失い、死者は1,000人以上を記録、被害総額は周辺都市の被害を合わせると未曾有のものとなりました。この年は、地震を一つの契機として排日運動が盛り上がり、日本人学童を別の学校に隔離する騒ぎも発生しました。
 こうした惨状に再起不能と思われた市は、9年後の1915年、パナマ運河開通を祝って開催されたパナマ・太平洋万国博覧会のころには完全に立ち直り、フェニックス(不死鳥)が市のシンボルとなります。のちに、この地震は横ずれ断層の代表的な例で、サンアンドレアス断層によるものと判明、活断層概念などを生むきっかけとなりました。
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