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カヴールの登場 [歴史]

 サルデーニャ王国はイタリア統一の障害となっていたオーストリアとの戦いに1849年大敗し、カルロ・アルベルトが退位、同年3月24日ヴィットリオ・エマヌエーレがサルデーニャ王となりました。
 1852年11月4日、トリノのカミッロ・カヴール伯が、サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世によって首相に任命されました。カヴールは自由主義的穏健派の指導者であり、貴族出身ながら農業・商業・工業など幅広く、近代化を実践してきました。首相としてのカヴールは、開放経済政策による経済発展と、さらにロシアとのクリミア戦争への参戦といったヨーロッパ列強に対する周到な外交戦略によって、サルデーニャ王国をイタリア統一の核として印象づけることに成功しました。また、すぐれた状況判断力で、国内でも巧みに政治的多数派を確保して、統一への基盤を固めました。
 これらの業績によって、サルデーニャ王国における1850年代は「カヴール時代」とよばれることになります。なお、カヴールはイタリア統一達成直後の1861年6月にマラリアで急死します。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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イタリアの統一へ [歴史]

 1865年4月15日のリンカン大統領暗殺は、北部による寛容な南部再建政策を困難とし、以後12年間、共和党急進派が政治権力をにぎり、北部主導の南部再建がおこなわれるようになりました。同年12月18日、憲法修正第13条が3分の2の州によって批准され、奴隷および法的手続きをとらない自由の拘束は、禁止されることになりました。一方、同年12月24日、南北戦争に敗れた南部のテネシー州プラスキで、白人による支配の復活を標榜する秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)が発足します。こうして、リンカンの大統領当選をきっかけに始まったアメリカ合衆国最大の内戦、南北戦争は終結しました。
 この時代、大西洋をはさんだヨーロッパ大陸でも、イタリアの統一(1861年)やドイツの統一(1871年)といった世界史上、重要なことがおこります。
 中世以来、フランスとオーストリアにはさまれて小国が乱立し、分裂が続いていたイタリアでは、1848年の二月革命後、「青年イタリア」を指導してきたマッツィーニも参加するローマ共和国が1849年建設されましたが、フランス軍に倒されました。また、イタリアの有力国サルデーニャ王国もイタリア統一の障害となっていたオーストリアと1848年に戦いを開始しましたが、翌1849年に大敗します。
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リンカン大統領、暗殺される [歴史]

 1865年4月9日、南軍指導者のリー将軍は降伏文書に署名しました。こうして、4年余にわたる南北戦争は終結しました。北軍グラント将軍が示した降伏条件は寛大な内容でした。南軍将校と兵士は戦闘を放棄して帰郷するにあたり、これからの農耕のために馬と携帯武器を保持してもよいとされました。さらに飢えに苦しむ南軍兵士に食糧調達を申し出ました。
 リー将軍降伏の報せは、ただちに南部各地に伝えられ、まだ戦闘態勢にあった南軍部隊も次々と武器を放棄して帰郷の途に就きました。翌5月10日、南部連合大統領ジェファソン・デーヴィスがジョージア州で逮捕され、その後2年間投獄生活を送ることになります。4年余にわたる南北戦争で、北軍兵士36万人、南軍兵士26万人が犠牲となりました。
 南軍降伏から5日後の4月15日、リンカン大統領はワシントンで観劇中に、狂信的な南部主義者に狙撃され、翌日亡くなりました。享年56歳でした。
 犯人のジョン・ブース(27歳)は、南部連合を狂信的に支持する俳優で、「暴君の運命は常にこうなるのだ。南部が仕返しをしたのだ」と叫びながら逃亡しました。また、ブースの仲間8人は、副大統領、国務長官、グラント将軍の暗殺も企てていましたが、国務長官に重傷を負わせた以外は未遂に終わりました。ブースは、この月26日に、ヴァージニア州の田舎家の納屋に潜んでいるところを、連邦軍の放った火の中で射殺されました。
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南北戦争の終結 [歴史]

 1863年1月のリンカン大統領による奴隷解放宣言令をうけて、1864年6月28日には、1850年に制定された逃亡奴隷取締法が廃止されました。
 1864年9月2日、北軍のシャーマン将軍はジョージア州の州都アトランタを占領します。その地からジョージア州を横断して大西洋岸にいたる進軍の間、徹底的な焦土作戦を実行します。さらに、サウスカロライナ州、ノースカロライナ州へと北上し、全行程約680kmを焦土作戦で破壊し尽くし、南部人の戦意を喪失させました。1865年4月3日には、ついに南部連合(アメリカ連合国)の首都リッチモンドも陥落し、南部連合の大統領ジェファソン・デーヴィスは司令本部から逃亡しました。食糧も武器もない状態に追い込まれた南軍は、戦闘不能となり、南軍の指導者リー将軍は、ゲリラ戦であくまで抵抗を続行しようとする部下の将校を説得し、同年4月9日、降伏のための会見に臨みました。
 1865年4月9日、ヴァージニア州のアポマトックス・コートハウスの村の民家で、南軍のリー将軍が北軍指導者グラント将軍と会見、降伏条件が寛大であったこともあり、リー将軍は降伏文書に署名しました。こうして、4年にわたる南北戦争は終結しました。
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ゲティスバーグの戦い [歴史]

 1863年5月初めから連邦(アメリカ合衆国)の首都ワシントンをめざして北進していた南部連合(アメリカ連合国)軍リー将軍は、6月28日ペンシルヴェニア州南部の要衝ゲティスバーグにヴァージニア軍団を集めました。ペンシルヴェニア侵攻によって北部を分断し、南部連合打倒が不可能なことを国の内外に示すねらいでした。
 一方、迎え撃つリンカン大統領は、ミード将軍を派遣しました。こうして、両軍はゲティスバーグの町の下手にあるセミタリー・リッジの高台で、7月1日激突しました。戦闘は3日間続き、3日の午後、両軍の一斉砲撃に続いて、ビケット将軍が指揮する1万5,000人の南軍は、銃剣を携え隊列を組んで突撃しました。しかし、北軍の砲撃の前に、将校、兵士ともほとんどが死傷するという悲劇を招きました。
 この「ビケットの突撃」とよばれる高地への攻撃を決行させたリー将軍は、戦略の誤りを認め、翌4日豪雨のなかを退却することになります。この3日間の戦闘で、北軍8万6,000人のうち2万3,000人、南軍7万5,000人のうち2万8,000人が死傷し、南北戦争史上、最大の惨事となりました。
 同年11月19日、ゲティスバーグの戦いの跡地を国立戦没者墓地とし、戦死者の霊を弔う式典が、リンカン大統領を招いて行われました。このとき、同大統領の追悼演説が、「人民の、人民による、人民のための政治」のことばで結ばれたことはあまりにも有名です。
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