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ビスマルク時代のドイツ経済 [歴史]

 1873年10月22日、三帝会談をもとに、ドイツ・オーストリア・ロシア間に三帝協約が締結され、フランスの国際的孤立化をめざすビスマルク外交の出発点となりました。協約締結から6日後の10月28日、「ウィーンの破局」とよばれるオーストリアとハンガリーにおける企業の大倒産に端を発する金融恐慌が、ドイツに波及し、この日、ベルリンの証券取引所は、空前の大暴落に見舞われました。
 プロイセン=フランス戦争の勝利により、フランスから獲得した50億金フランもの賠償金はドイツ経済の急激な発展を呼び起こしました。それが、空前の会社設立ブームとなり、過熱した投機マネーによって、株価は急騰を続けました。まだ、ドイツの金融市場がぜい弱だったところに、恐慌が襲って、大きな反動が証券市場に押し寄せました。この後、3年ほどのあいだに全ドイツで設立された企業857社のうち160社が倒産し、ドイツは、ビスマルクが引退するまでの約20年間に及ぶ慢性的な経済不況が始まりました。さらに、そこに農業不況も重なり、1879年ビスマルクは自由放任主義の自由貿易政策を放棄して、保護関税法を制定して保護貿易政策にかじを切りました。この経済政策の変更は、ビスマルクの内政全般の保守化への転機にもなりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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ビスマルク体制 [歴史]

 1872年9月6日、ベルリンでドイツ皇帝ヴィルヘルム1世とロシア皇帝アレクサンドル2世およびオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の三帝会談がおこなわれました。この時の会談では、バルカン半島をめぐるオーストリアとロシアの対立のため物別れにおわりましたが、翌1873年10月22日、三帝会談をもとに、ドイツ・オーストリア・ロシア間に三帝協約が締結されました。この三帝協約に基づく同盟を三帝同盟ともいい、フランスの国際的孤立化をめざすビスマルク外交の出発点となりました。しかし、バルカンにおけるロシアとオーストリアの利害対立は解消せず、まもなく空文化しました。
 1878年のベルリン会議でビスマルクは「誠実な仲介人」と称してバルカン半島における関係国の利害を調整しましたが、ロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊しました。ビスマルクは翌79年10月にオーストリアとの間にドイツ・オーストリア同盟を結成しましたが、その後もロシア・オーストリア間の対立は解消できず、1887年三帝同盟は消滅しました。ビスマルクは3国間の同盟をあきらめ、同87年ロシアとの間に再保障条約を結びました。こうしてビスマルクが1890年に引退するまで、フランスは国際的孤立状態から脱却できませんでした。
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ビスマルク体制構築へ [歴史]

 ビスマルクはエムス偽電報事件でナポレオン3世を挑発し、開戦に持ち込み、プロイセン・フランス戦争に勝利、ドイツ統一を成し遂げました。しかし、当然のことながら、ばく大な賠償金を課せられ、アルザス・ロレーヌ地方を割譲させられたフランスは激しい復讐心をいだくことになります。さらに、敗戦国フランスはビスマルクが予想する以上の国力を回復させていきます。
 そのため、ビスマルクはフランスに報復を断念させるため、フランスを列強国のなかで孤立させることをねらいます。アフリカにおける植民地政策で、イギリスは縦断政策を推し進めていましたが、それはフランスが進める横断政策と対立することになります。そのため、ビスマルクは「光栄ある孤立」政策をとるイギリスと協調・親善関係を保ち、イギリスとフランスの接近を防ぎました。
 1872年9月6日、ベルリンでドイツ皇帝ヴィルヘルム1世とロシア皇帝アレクサンドル2世およびオーストリア皇帝レオポルド2世フランツ・ヨーゼフ1世の三帝会談がおこなわれました。この会談を進言したビスマルクのねらいは、フランスを国際的に孤立させることにありました。最悪のケースはフランスとロシアの同盟であり、実現すればドイツは東西二正面戦争をよぎなくされます。事実、ビスマルク引退後の1894年に露仏同盟が完成します。そのため、万難を排してロシアをドイツの側に引き寄せなければなりませんでした。また、帝政国家同士の結合により、ドイツ帝国の保守的体制を強化する意図も働いていました。一方、オーストリアはドイツの侵略を恐れ、ロシアは国際的孤立を恐れて会談に賛成しました。
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アフリカ探検中のリヴィングストン、救出される [歴史]

 1871年11月13日、ナイル川の水源を求めて、1866年から3度めのアフリカ探検に出かけ行方不明になっていたリヴィングストン博士(58歳)が、タンガニーカ湖東岸のウジジ村で発見されました。博士は熱病でかなり衰弱していたものの、生命には別状ありませんでした。
 救出したのは、ニューヨーク・ヘラルド紙が博士探索のため派遣していたヘンリ・スタンリー記者(30歳)で、2年間にわたる捜索の末、発見に成功しました。博士によると、同行者に薬を持ち逃げされて病気になったとのことでした。その後、博士はスタンリー記者とともに、タンガニーカ湖周辺を探検し、記者の帰国の勧めを断って探検を続け、1873年にチタンボ村(現ザンビア中東部)で客死しました。博士は宣教師でもあり、人道主義者として奴隷貿易廃止の先駆者でしたが、南部アフリカの東西横断成功により通商ルートを開き、結果として植民地支配への先鞭をつけました。
 一方、スタンリーもアフリカ中央部の横断(1874~77年)など数々の探検を行い、『暗黒大陸横断』(1878年)を著しました。この著書などによりアフリカ大陸内陸部の事情があきらかになると、ヨーロッパ列強はこの地域に関心を示すようになりました。
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