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ビスマルク体制構築へ [歴史]

 ビスマルクはエムス偽電報事件でナポレオン3世を挑発し、開戦に持ち込み、プロイセン・フランス戦争に勝利、ドイツ統一を成し遂げました。しかし、当然のことながら、ばく大な賠償金を課せられ、アルザス・ロレーヌ地方を割譲させられたフランスは激しい復讐心をいだくことになります。さらに、敗戦国フランスはビスマルクが予想する以上の国力を回復させていきます。
 そのため、ビスマルクはフランスに報復を断念させるため、フランスを列強国のなかで孤立させることをねらいます。アフリカにおける植民地政策で、イギリスは縦断政策を推し進めていましたが、それはフランスが進める横断政策と対立することになります。そのため、ビスマルクは「光栄ある孤立」政策をとるイギリスと協調・親善関係を保ち、イギリスとフランスの接近を防ぎました。
 1872年9月6日、ベルリンでドイツ皇帝ヴィルヘルム1世とロシア皇帝アレクサンドル2世およびオーストリア皇帝レオポルド2世フランツ・ヨーゼフ1世の三帝会談がおこなわれました。この会談を進言したビスマルクのねらいは、フランスを国際的に孤立させることにありました。最悪のケースはフランスとロシアの同盟であり、実現すればドイツは東西二正面戦争をよぎなくされます。事実、ビスマルク引退後の1894年に露仏同盟が完成します。そのため、万難を排してロシアをドイツの側に引き寄せなければなりませんでした。また、帝政国家同士の結合により、ドイツ帝国の保守的体制を強化する意図も働いていました。一方、オーストリアはドイツの侵略を恐れ、ロシアは国際的孤立を恐れて会談に賛成しました。
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