SSブログ

ロシアで「血の日曜日事件」起こる [歴史]

 ロシアの司祭ゲオルギー・ガポンが1904年に組織した労働組合で、1905年になって組合員が解雇されました。これに対する抗議のストライキが首都サンクトペテルブルク全市に波及すると、ガポンは無権利状態にある自分たちの窮状と、憲法制定会議の開催、政治的な自由、日露戦争の中止、8時間労働などの要求を、直接ツァーリ(皇帝)に訴える請願書の提出を提案しました。これが広く労働者に受け入れられました。
 1905年1月22日、冬宮にいる皇帝ニコライ2世に請願書を届けようと、ペテルブルク市内を行進する約10万人の労働者に対して、要所に配置されていた軍隊が発砲、多数の死傷者が出ました。軍隊と群衆の衝突は市内の10カ所以上で起こり、死者は数百人にのぼりました。これが「血の日曜日事件」です。
 皇帝の肖像を掲げ、イコンを持った労働者の平和的な行進に対するツァーリ政府のこの暴挙は、ロシア各層の憤激をよび、ここに第1次ロシア革命が開始されました。
 革命は、この年1905年10月の全国政治ゼネストでピークを迎え、ツァーリ政府は、市民的な自由と選挙権の拡大などを約束する十月詔書を出すことになります。これによって、ロシアに憲法と国会がもたらされます。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。