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ビスマルク体制 [歴史]

 1872年9月6日、ベルリンでドイツ皇帝ヴィルヘルム1世とロシア皇帝アレクサンドル2世およびオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の三帝会談がおこなわれました。この時の会談では、バルカン半島をめぐるオーストリアとロシアの対立のため物別れにおわりましたが、翌1873年10月22日、三帝会談をもとに、ドイツ・オーストリア・ロシア間に三帝協約が締結されました。この三帝協約に基づく同盟を三帝同盟ともいい、フランスの国際的孤立化をめざすビスマルク外交の出発点となりました。しかし、バルカンにおけるロシアとオーストリアの利害対立は解消せず、まもなく空文化しました。
 1878年のベルリン会議でビスマルクは「誠実な仲介人」と称してバルカン半島における関係国の利害を調整しましたが、ロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊しました。ビスマルクは翌79年10月にオーストリアとの間にドイツ・オーストリア同盟を結成しましたが、その後もロシア・オーストリア間の対立は解消できず、1887年三帝同盟は消滅しました。ビスマルクは3国間の同盟をあきらめ、同87年ロシアとの間に再保障条約を結びました。こうしてビスマルクが1890年に引退するまで、フランスは国際的孤立状態から脱却できませんでした。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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