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リンカン、米大統領に [歴史]

 1860年11月6日の米大統領選挙の最大の争点は、奴隷制度問題でした。この大統領選挙に、奴隷制度の西部準州への拡大に反対する共和党候補のリンカン、奴隷制度の正当性と準州への拡大を要求する南部民主党に推されたブレッキンリッジ、住民主権の原則で解決しようとする北部民主党に推されたダグラス、問題を棚上げして憲法と連邦の維持を説く立憲連邦党のベルの4候補がのぞむという展開になりました。
 共和党は、保護関税、ホームステッド法、大陸横断鉄道の建設、地域開発促進などをうたったシカゴ綱領により、経済問題を前面に出して選挙戦をすすめました。その結果、当初劣勢を伝えられていたリンカンは、民主党の分裂に助けられて大統領に当選しました。
 選挙人獲得をめざす合衆国独特の大統領選挙の結果は、リンカン180人、ブレッキンリッジ72人、ダグラス12人、ベル39人でした。リンカンは一般投票では39.8%しか獲得できませんでしたが、ニュージャージー州を除くすべての自由州の選挙人を獲得しました。こうして、リンカンは第16代アメリカ合衆国大統領に当選しました。
 リンカンはケンタッキーの貧農の子に生まれ、独学で弁護士となりました。1846年ホイッグ党から連邦議会下院議員に選出され、1856年共和党に所属しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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ジョン・ブラウンの蜂起 [歴史]

 1852年に刊行されたストウ夫人の『アンクル=トムの小屋』に触発されて、北部地域で人道的な立場から黒人奴隷制反対の世論が高まりました。当時、南部から北部へと黒人奴隷が逃亡するのを助ける地下組織(アンダーレイルロード)が活発に活動していましたが、業をにやした南部側が裁判所の判断を求めました。1857年、奴隷が自由州に逃げても解放されないとする最高裁判決(ドレッド=スコット判決)が出て南部側は勝利しましたが、北部の奴隷制反対派は激しく反発しました。
 一方、渦中のカンザス州では、1856年5月24日ジョン・ブラウンとその仲間7人が、ポタワトミー・クリークで奴隷制支持派5人を襲撃し殺害しました。これは3日前に、奴隷制廃止派の中心地でもあったローレンスで、ホテルや新聞社が襲撃されたことへの報復でした。これらの事件を機に、カンザス州は両派による内戦状態となります。この内戦状態は、同年9月、連邦軍の支援を得て知事により沈静化されました。
 若いころから奴隷の逃亡を助ける地下組織にかかわっていたブラウンと、その仲間は、この事件の後、北部に逃れ一躍ヒーローになりました。しかし、1859年10月16日、ブラウン一派はヴァージニア州ハーバーズ・フェリーを占拠、奴隷の蜂起を期待しましたが失敗し、反逆罪などで絞首刑となりました。こうして政治問題となった黒人奴隷制問題は1860年の大統領選挙の最大の争点となりました。
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南北戦争へ [歴史]

 アメリカ合衆国の南部地域は独立以前から、黒人奴隷を労働力とするタバコ・米・藍・綿花などを栽培する大農場が普及していました。西部への開拓が進み、西部に新しく生まれる州で奴隷制を認めるかどうかで北部と南部は激しく対立するようになりました。工業化がすすんだ北部は、自由な労働力の必要から、奴隷制に否定的でした。そのため、1820年のミズーリ協定や、1850年の協定などで、西部に新州が誕生するたびに、自由州とするか、奴隷州とするかについての政治的妥協がおこなわれました。
 ところが、1852年ストウ夫人が黒人奴隷を主人公とする『アンクル=トムの小屋』を出版したことにより、北部地域で人道的な立場から黒人奴隷制反対の世論が高まりました。こうしたなか、西部に誕生したカンザス・ネブラスカ両州が連邦に加盟する際、ミズーリ協定が破棄され、住民投票によって奴隷州にするか自由州にするか決定することにしました(1854年、カンザス・ネブラスカ法)。今日、カンザス州は合衆国のど真ん中、いわば合衆国のヘソの部分にあたります。ここが奴隷州になると、その影響が全国に及ぶことになります。奴隷制の拡大を恐れる反対派は1854年、ホイッグ党を発展的に解消して、今日につながる共和党を結成しました。
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クリミア戦争の終結 [歴史]

 クリミア戦争で苦境に陥ったロシアは、ウィーン体制確立以来盟友関係にあったオーストリアの支援を期待していました。しかし、オーストリアは自国の利害を優先し、戦争では中立を決め込み、軍隊をロシアとの国境に集結させてけん制し、講和をしなければロシアを敵として参戦すると警告しました。
 1856年3月30日、英・仏・サルデーニャ・オスマン帝国の4カ国連合とロシアとのあいだで戦われたクリミア戦争を終結させるパリ講和条約が調印されました。ロシアはセヴァストポリを含む四つの海軍基地の破壊と、黒海からの艦隊の撤収に同意しました。そのほかに、ベッサラビアの南半分の領有権の放棄、モルダヴィア・ワラキア・セルビアの自治権の保障、ドナウ川航行の自由と黒海の中立化、さらにオスマン帝国内のギリシア正教徒に対する保護要求の断念、オスマン帝国に対する干渉の禁止などが取り決められました。こうしい、ロシアの南下政策は挫折し、ナポレオン戦争以来、国際的威信も失墜しました。
 また、ロシアの国内政治にも重要な意味をもつことになります。この戦争の末期に帝位に就いたアレクサンドル2世にとって大きな衝撃となり、ロシアの後進性が内外に一気にあらわれました。そのため、クリミア戦争の敗北は、農奴解放をはじめとする、上からの国内改革を推進するきっかけとなりました。
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