SSブログ

ジョン・ブラウンの蜂起 [歴史]

 1852年に刊行されたストウ夫人の『アンクル=トムの小屋』に触発されて、北部地域で人道的な立場から黒人奴隷制反対の世論が高まりました。当時、南部から北部へと黒人奴隷が逃亡するのを助ける地下組織(アンダーレイルロード)が活発に活動していましたが、業をにやした南部側が裁判所の判断を求めました。1857年、奴隷が自由州に逃げても解放されないとする最高裁判決(ドレッド=スコット判決)が出て南部側は勝利しましたが、北部の奴隷制反対派は激しく反発しました。
 一方、渦中のカンザス州では、1856年5月24日ジョン・ブラウンとその仲間7人が、ポタワトミー・クリークで奴隷制支持派5人を襲撃し殺害しました。これは3日前に、奴隷制廃止派の中心地でもあったローレンスで、ホテルや新聞社が襲撃されたことへの報復でした。これらの事件を機に、カンザス州は両派による内戦状態となります。この内戦状態は、同年9月、連邦軍の支援を得て知事により沈静化されました。
 若いころから奴隷の逃亡を助ける地下組織にかかわっていたブラウンと、その仲間は、この事件の後、北部に逃れ一躍ヒーローになりました。しかし、1859年10月16日、ブラウン一派はヴァージニア州ハーバーズ・フェリーを占拠、奴隷の蜂起を期待しましたが失敗し、反逆罪などで絞首刑となりました。こうして政治問題となった黒人奴隷制問題は1860年の大統領選挙の最大の争点となりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0)