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セヴァストポリ要塞の攻防戦 [歴史]

 クリミア半島のロシアの要塞セヴァストポリをめぐる攻防戦は、3年に及ぶクリミア戦争中もっとも重要な戦いでした。セヴァストポリをめぐる戦闘は、1854年9月に始まり、実に349日間続きました。10月には劣勢のオスマン帝国を支援する英仏連合軍約5,500名がクリミア半島に上陸し、セヴァストポリを包囲しました。守勢に立ったロシアは、急きょセヴァストポリの市街に防御工事を施し、また英仏艦隊の入港を防ぐため港の入口に自国の艦艇を沈めました。こうして、5万人のロシア軍が守るセヴァストポリ要塞の攻防戦が約1年近くにわたって展開されました。
 戦闘はロシア軍の防衛が強固なため進展せず、気候の変化や疫病で連合軍は攻撃に苦戦しました。この間、イタリア統一に有利な状況をつくろうとするサルデーニャ王国が、ナポレオン3世の歓心を得るため、1855年1月に参戦しました。結局、悪戦苦闘の末フランス軍がセヴァストポリの要(かなめ)であるマラホフ高地を奪取して、ロシア軍の要塞放棄をよぎなくさせ、同年9月10日、要塞は陥落しました。
 ロシア黒海艦隊の基地である同要塞の陥落は、ロシアの黒海支配の終わりとともに、クリミア戦争の帰趨を決定づけることになります。この要塞の攻防戦における戦死者は連合軍が7万、ロシア軍が10万といわれています。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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クリミア戦争の国際関係 [歴史]

 1853年10月16日、オスマン帝国は、支配下のモルダヴィアとワラキアにこの年の7月から8万の軍隊を進駐させてきたロシアに対して宣戦布告をしました。また、イギリスとフランスは黒海の制海権を獲得したロシアの南下政策に反発して、オスマン帝国の支援態勢に入りました。
 同年11月黒海のトルコ北岸にあるシノブ湾において、ロシア黒海艦隊はオスマン帝国の艦隊を全滅させると、オスマン帝国の降伏を恐れる英仏は艦隊を黒海に急行させるとともに、翌1854年3月28日ロシアに宣戦布告しました。
 ロシアは早くから南下政策を推進し、数度のロシア=トルコ戦争をへて、地中海から黒海への自由航行権や黒海の通商権を獲得していました。この動きに対して、イギリスとフランスは反発を強めました。イギリスはインドへのルートを確かなものにしようとし、フランスは新皇帝ナポレオン3世が自己の名声を外交的成功で得ようとして譲りませんでした。また、翌1855年1月にはサルデーニャ王国も英仏側について参戦します。サルデーニャは、イタリア統一の障害となるオーストリアをけん制するためフランスと同盟する必要がありました。さらに、オーストリアもバルカン地域へのねらって、ロシアとの国境地帯に軍隊を進出させ、中立の態度を保ちました。こうして、ロシアは国際的に孤立しました。
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クリミア戦争始まる [歴史]

 クリミア戦争の直接のきっかけは、オスマン帝国の支配下にある聖地イェルサレムの管理権問題です。聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以来ローマ教皇の保護者であったフランスが掌握していましたが、フランス革命による混乱のなかで、ギリシア正教徒がロシアの支持を背景に管理権を獲得していました。ところが、フランス皇帝ナポレオン3世が国内のカトリック教徒の歓心を得ようとして、管理権の回復をオスマン帝国に要求し、オスマン帝国はこれに応えて、管理権をギリシア正教徒からカトリック教徒に移しました。
 これに対し、ロシア皇帝ニコライ1世は、オスマン帝国領内ルーマニアのギリシア正教徒をロシアの保護下におくこと、それに聖地管理権の復活を要求しました。オスマン帝国は管理権の復活要求には応じましたが、前者については内政干渉として拒否しました。これがクリミア半島と黒海を主戦場とするクリミア戦争の発端となりました。
 これまでの数次にわたるロシア=トルコ戦争で、ロシアは黒海の制海権を獲得し、沿岸のクリミア半島にロシア最大の軍事基地を建設していました。1853年6月2日、ロシア特使が、オスマン帝国政府に対し、ルーマニアのギリシア正教徒をロシアの保護下におくことを要求する最後通牒を渡しました。そして、同年10月16日、オスマン帝国がロシアに宣戦し、クリミア戦争が始まりました。
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ボナパルティズム [歴史]

 ナポレオン3世は第二帝政成立当初、共和派や王党派を弾圧し、労働組合を禁止するなど厳しい政策をとりますが、一方で、国民の広い支持を獲得します。
 農民や労働者からみれば、普通選挙を守れと叫んで王党派と対決してきたナポレオン3世は、自分たちを苦しめてきた大地主や大資本家を解体し、破局的とまでいわれた数年来の農業危機や経済不況を乗り切ってくれる指導者であるとみなしました。
 また、産業革命とともにのしあがってきた新興の工業家・銀行家は、それまで国を支配してきた大銀行家が作り上げた金融制度の自由化・近代化を望みました。こうして成長した新興の銀行家ペレール兄弟が、帝国の支持をバックにロスチャイルド家に戦いを挑むと、ヨーロッパ全土に勢力を誇るこの大銀行家一族も一歩譲らざるをえないほどとなります。
 さらに、ナポレオン3世は国家予算を鉄道建設や都市改造などの公共事業に投入します。1852年にわずか1,900kmだった鉄道も、1870年には18,000kmに達します。パリやリヨンなどの都市は大改造が施され、とくにパリは、現代にいたる放射道路建設など、知事による都市改造で大きく変貌します。
 こうした政治形態を、ブルジョワジーの上昇期に出現し、国民投票や普通選挙など民主主義要因を含む独裁制という特異な近代の権力形態の一つとして、第二帝政を第一帝政と並んでボナパルティズムということがあります。
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フランス第二帝政 [歴史]

 1851年12月クーデタを起こしたルイ・ナポレオンは、翌1852年11月に実施された国民投票によって皇帝に就任し(ナポレオン3世、在位1852~70年)、第二帝政が始まりますが、労働者・資本家・農民の3勢力の均衡を絶えず考慮しなければなりませんでした。
 最初、共和派や王党派を弾圧し、労働組合を弾圧するなど専制帝政(権威帝政、1852~60年)と呼ばれる皇帝権力が強いものでした。しかし、イタリア統一戦争への介入やイギリスとの通商条約締結を契機として自由主義運動が高揚したため、ナポレオン3世は議会に対して譲歩するようになり、元老院や立法院に質問権を与えたり、労働者の団結権を認めたり、集会法や出版法を緩和したりしました(自由帝政、1860~70年)。しかし、国民の体制批判は高まる一方で、1869年の選挙で反対派が大幅に進出し、1870年新憲法が制定され議会帝政が成立しました。
 ナポレオン3世は、即位翌年の1853年にスペインの大貴族の娘と結婚し世継ぎをもうけ、帝政の永続が約束されたようにみえましたが、1870年、プロイセン・フランス戦争に敗れ退位し、第二帝政は終わりをつげました。
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