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クリミア戦争の終結 [歴史]

 クリミア戦争で苦境に陥ったロシアは、ウィーン体制確立以来盟友関係にあったオーストリアの支援を期待していました。しかし、オーストリアは自国の利害を優先し、戦争では中立を決め込み、軍隊をロシアとの国境に集結させてけん制し、講和をしなければロシアを敵として参戦すると警告しました。
 1856年3月30日、英・仏・サルデーニャ・オスマン帝国の4カ国連合とロシアとのあいだで戦われたクリミア戦争を終結させるパリ講和条約が調印されました。ロシアはセヴァストポリを含む四つの海軍基地の破壊と、黒海からの艦隊の撤収に同意しました。そのほかに、ベッサラビアの南半分の領有権の放棄、モルダヴィア・ワラキア・セルビアの自治権の保障、ドナウ川航行の自由と黒海の中立化、さらにオスマン帝国内のギリシア正教徒に対する保護要求の断念、オスマン帝国に対する干渉の禁止などが取り決められました。こうしい、ロシアの南下政策は挫折し、ナポレオン戦争以来、国際的威信も失墜しました。
 また、ロシアの国内政治にも重要な意味をもつことになります。この戦争の末期に帝位に就いたアレクサンドル2世にとって大きな衝撃となり、ロシアの後進性が内外に一気にあらわれました。そのため、クリミア戦争の敗北は、農奴解放をはじめとする、上からの国内改革を推進するきっかけとなりました。
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