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パリ・コミューンの崩壊 [歴史]

 1871年3月18日、ティエール政府軍は蜂起したパリ国民軍の武装解除を図りますが、民衆の反撃にあって失敗しました。同月26日パリでコミューン選挙が行われ、民衆の自治都市パリ・コミューンが成立し、直接民主制による自治が開始されました。
 1871年4月になると、ヴェルサイユのティエール政府は農村から6万~8万人を徴兵し、ドイツからの帰還兵士を加え13万の正規軍がパリ攻撃を始めました。防衛側の国民衛兵は実質3万~6万程度ですが、武器を豊富に蓄え、城壁に囲まれたパリを陥落させるのは至難のわざでした。しかし、包囲が長引くにつれ、コミューン内部で混乱と分裂が広がり、民兵でしかない国民衛兵の弱体が目立つようになりました。
 1871年5月21日午後、ドイツの支援をとりつけた政府軍は市街へ突入を開始し、のちに「血の週間」とよばれるように、1週間にわたって殺戮を行い、パリを制圧しました。このパリ攻防戦で正規軍の戦死者877人に対し、コミューン側の犠牲者は3万人に達しました。
 それから、2年後の1873年5月24日、王党派が発議して、366対344の議会票決で、ティエール大統領が罷免され、マクマオン元帥が後任の大統領に選出されました。王党派はカトリック教会を強化して、王政復活をもくろみましたが、1875年1月30日王党派が分裂したことにより、第三共和政憲法が議会で1票差をもって可決されました。こうして、フランスでは、プロイセン=フランス戦争の敗北による第二帝政の崩壊と、パリ・コミューンの混乱をへて、第三共和政が不安定な政治基盤のなか、発足しました。
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