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露仏同盟へ [歴史]

 ドイツの宰相ビスマルクの外交政策は、フランスの孤立化政策にありました。しかし、ロシアとオーストリアがバルカンをめぐり対立、ドイツ・ロシア・オーストリアの三帝同盟(協商)の更新は不可能となり、ビスマルクは1887年6月、ロシアと再保障条約を締結して、ロシアをドイツ側につなぎ止めようとしました。それにもかかわらず、ロシアはドイツから離れていき、1894年にはドイツと対立する露仏同盟が成立します。
 すでにその徴候は、ロシアとドイツが再保障条約を締結した1887年にあらわれていました。同年、ベルリン帝国銀行はロシア公債の引き受けを拒否します。そんななか、ドイツから閉め出されたロシアの公債の80%近くを引き受けたのは、フランスの金融資本ロスチャイルド財閥でした。こうして、まず、ロシアとフランスとのあいだに経済的結びつきがはじまります。
 1890年ビスマルクが退陣すると、独皇帝ヴィルヘルム2世は「新航路政策」を掲げ、独露再保障条約の更新を拒否しました。翌1891年5月31日、フランスの財政的援助により、ロシアはシベリア鉄道の建設工事に着手、同年7月、フランス艦隊がロシアの軍港クロンシュタットを訪問、同年8月27日両国間で政治協定が結ばれ、さらに翌1892年8月27日両国は軍事協定に調印しました。こうした急速な両国の接近により、フランスは1870年のプロイセン=フランス戦争以来の国際的孤立から脱することになりました。
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