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プロイセン=オーストリア戦争 [歴史]

 1865年8月デンマーク戦争に勝利したプロイセンとオーストリアは、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインをそれぞれ統治することで合意しました。
 ところが、翌1866年6月9日プロイセンはホルシュタインを併合し、同月16日にはザクセンやハノーファーに侵攻して、プロイセン=オーストリア戦争が始まりました。さらに同月20日には、反オーストリア同盟を結んでいたイタリアがオーストリアに宣戦布告をしました。この戦争の帰趨は、7月3日、プラハの東方約105kmのケーニヒグレーツ(サドワ)での戦いにおいて決せられました。この戦いで、参謀総長モルトケの指揮する22万のプロイセン軍が、新式の後装撃針銃を装備して、旧式前装銃の21万5,000のオーストリア・ザクセン連合軍に圧勝しました。
 同1866年8月23日、「プラハの和」が締結され、プロイセン=オーストリア戦争は終結しました。講和条約では、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が解体され、ドイツ統一からのオーストリアの除外、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン両公国のプロイセンへの編入などが定められました。さらに同年10月3日には、オーストリアとイタリアがウィーン条約を結び、イタリアがヴェネツィアを併合しました。翌1867年4月16日、北ドイツ連邦憲法が採択され、プロイセン国王を盟主として、北ドイツ22カ国からなる北ドイツ連邦が結成されました。こうして、プロイセン主導のドイツ統一への歩みが促進されました。
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