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プロイセン=フランス戦争へ [歴史]

 1867年3月オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立しましたが、ドイツ人とマジャール(ハンガリー)人を支配民族とする二元的支配は、他の諸民族の不満を高め、たえず国家解体の危機に直面することになりました。翌1868年8月23日には、帝国議会のチェコ人議員が、ベーメン、メーレン、シュレジエンを併せた独立王国の建設を主張して、総辞職しました。
 同1868年9月、スペインでプリム将軍が軍隊の支持をとりつけ、女王イサベル2世親政の政府に対して反乱に踏み切りました。おりからの金融恐慌と凶作に国民の不満が高まり、都市民衆蜂起が各地でおき、耐えられなくなったイサベル2世は同月30日、スペインを脱出しました。これを称してスペイン9月革命といい、混乱が収拾される1875年までスペインでは「革命の6年」と呼ばれます。
 ところで、1868年の9月革命でイサベル2世がパリに亡命して以来、空位となっていたスペイン王位に、プロイセンのホーエンツォレルン家の王子レオポルドが推戴され、1870年6月19日、受諾を表明しました。これに対して、フランス皇帝ナポレオン3世はこの推戴に強く反対し、同年6月25日、パリ亡命中のイサベル2世が退位の説得に応じ、長子アルフォンソ12世に譲位しました。ここに、スペイン王位をめぐって、プロイセンとフランスが対立することになりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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