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1882年中国人移民制限法 [歴史]

 1881年3月ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されましたが、この暗殺をめぐり、反ユダヤ人暴動が、とくにウクライナ一帯で次々と起こり、虐殺や大量略奪にいたるポグロムとなりました。ロシアでポグロムが発生した同じ1881年、アメリカ合衆国では中国人を排斥する動きが表面化します。同年8月3日、米大統領アーサーは中国人の移民を向こう10年間禁止する移民制限法に署名しました。建国以来リベラルな移民法を取り入れ、すべての国の移民に門戸を開いてきたアメリカ合衆国が、はじめて一民族を排除の対象とした選択移民法を成立させました。
 この時期、中国系の人びとはカリフォルニア州だけでも15万人になっていました。もともと彼らは、カリフォルニアの金鉱労働者や大陸横断鉄道のクーリー(苦力)として、アメリカ合衆国が積極的に受け入れた移民労働者でしたが、白人労働者のあいだに危機感を生みだしていました。1870年代、アイルランド系のデニス・カーニーが扇動する中国人排斥運動は勢いを増し、カリフォルニアの労働者党も共鳴し、「中国人労働者は長時間、低賃金で働きすぎる」「彼らはアメリカ化する意志はなく、蓄財を母国に持ち帰ろうとしている」と糾弾していました。
 こののち、移民法は1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民は永久に禁止されました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(http://www.net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
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