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ヴィラフランカの講和 [歴史]

 プロンビエールの密約で、サルデーニャ王国首相カヴールはイタリア統一の障害となっていたオーストリアとの戦争で、フランスの参戦をとりつけることをねらっており、皇帝ナポレオン3世のねらいは、ヨーロッパ国際社会における主導権獲得と、サヴォイアとニースを手に入れることでした。
 1859年6月24日、イタリア北部ガルダ湖畔のソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ王国同盟軍がオーストリア軍を撃破しました。両軍あわせて26万の兵が11時間に及ぶ死闘を展開し、この年4月末にオーストリア軍の攻勢から始まったイタリア統一戦争での最大の決戦となりました。19世紀における最大の戦闘の一つといわれるソルフェリーノの戦いでは、両軍あわせて4万人に近い死者が出ました。その惨状を目撃し、救援活動を行ったデュナンは、戦後に赤十字運動を提唱しました。彼は1901年、最初のノーベル平和賞を受賞しています。
 この戦いでの勝利に対して、ナポレオン3世は自国の南に大国が登場する危機を感じ、同年7月11日、サルデーニャの承認なしに、オーストリアと単独で講和を結んでしまいます(ヴィラフランカの講和)。フランスの単独講和に、イタリア各地で不満がつのり、統一を求めて蜂起が次々とおこりました。
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