SSブログ
前の10件 | -

インド、日本の参戦 [歴史]

 1914年9月8日、インド帝国の立法参事会は、イギリスに協力して第一次世界大戦に参戦することを決議し、国民会議派もこの要請に応じました。インドは、参戦すれば、戦争終了後に自治が得られるとの期待をいだき、宗教的な対立を越えて参戦を決定しました。
 開戦2日後に、南アフリカからロンドンに到着したガンディーも、みずから野戦衛生隊を募り、積極的に戦争に協力しました。インドは、6億ドルの戦費を負担し、西部戦線へ騎兵2個師団をはじめ約15万の兵士を派遣するなどの約110万人をヨーロッパや西アジア、中国に派兵しました。
 大戦後の軍功のあったインド兵16人がヴィクトリア十字勲章を、99人が陸軍十字勲章を受章しますが、約5万4,000人も戦争の犠牲となりました。そのうえインドがもっとも期待した自治は、わずかなものしか与えられず、その後、反英運動が高まります。
 日英同盟を理由に1914年8月23日、ドイツに宣戦布告した日本は、ドイツの山東半島の権益を奪うため、9月2日、山東半島北側の竜口に上陸すると一帯を占拠し、ドイツ軍の青島要塞を孤立させました。同年11月7日、この日の午前1時40分、夜陰をついて日本軍突撃隊がドイツ軍陣営の中央を突破、その後、つぎつぎと砲台を奪取し、午前7時、ドイツ軍は降伏、ドイツ軍の捕虜は2,300人にも達しました。
 青島要塞陥落の報は、その日のうちに東京にも届き、街には「祝陥落」の提灯や幔幕、日章旗や電飾、花電車など、国民はまさに祝勝気分に酔いしれました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

パナマ運河開通 [歴史]

 1914年8月15日、この日、パナマ運河の開通式が挙行され、アメリカの汽船アンコン号が、完成したばかりのパナマ運河を10時間たらずで大西洋から太平洋へと公式通航しました。約1年前のクリストバル号による試験通航の失敗以来、諸装置の改良と操作訓練が重ねられたすえの成功でした。それを見届けたアメリカは、世界の商船にこの運河を開放すると宣言しました。
 1881年、フランスがスエズ運河を建設したレセップスの指揮の下、パナマ運河の建設に着手しました。しかし、ひどい洪水と地すべり、財務上のスキャンダル、黄熱病やマラリアなど熱帯性疫病の蔓延などが重なって挫折しました。この事業を引き継いだアメリカは独立させたパナマから、パナマ地峡の幅16kmの運河地帯を一時金1,000万ドル、年25万ドルで租借する権利を得るとともに、フランスから現地に残された全資産を買い取り、1905年に工事を再開しました。
 猛威をふるっていた黄熱病やマラリアは、軍医ゴーガスの努力で撲滅されました。また約26mにも達する大西洋と太平洋の水位差も三つの閘門によって解決され、総延長80km、幅90~300mの運河が完成しました。
 パナマ運河の開通は、ニューヨークとサンフランシスコ間の距離を1万5,000km短縮した通商上の意義に加えて、アメリカにとっては軍事上の大きく、大西洋と太平洋の艦隊は相互に補うことが出来るようになり、カリブ海や中南アメリカに軍事的圧力や政治的影響力を及ぼすことも可能となりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第一次世界大戦開戦 [歴史]

 ドイツは、1914年8月1日にロシア、3日にはフランスに宣戦布告、イギリスも、4日、ドイツに宣戦布告しました。こうしてヨーロッパ列強は、あいついで大戦へとなだれこんでいきました。それに対してて、アメリカのウィルソン大統領は、8月4日、中立宣言を発し、「行動においても心情においても中立を守る」よう国民によびかけました。遠く離れたヨーロッパで起きた紛争にはまきこまれたくないという、建国以来の外交方針にもとづくものでしたが、大統領自身は心情的には親英的でした。
 大戦が始まる直前の7月31日、フランスで反戦のシンボルで統一社会党党首ジャン・ジョレスが、右翼青年の凶弾に倒れました。前年15万人にものぼる兵役延長反対集会を成功させ、さらに戦争阻止の運動を盛り上げようとする矢先の死でした。ヨーロッパはすでに愛国心と戦争熱におおわれつつあり、多くの人びとは、自国の危機のためには銃をとることも辞さない構えをみせていました。彼らにとっては、反戦運動は国を売る行為であり、敵でした。パリに開戦の報が伝わると、人びとは大戦をドイツの攻撃に対する神聖な祖国防衛戦争ととらえ、「ラ・マルセイエーズ」を高唱し、アルザス・ロレーヌの奪還に燃えました。そして、総動員令のもと多くの若者が意気揚々と出征していきました。
 一方のドイツでも、戦争を日常の漠然とした不安や不満を解決する手段として歓迎しました。フランスとの西部戦線に出撃するドイツ軍兵士は、短期決戦によるドイツの勝利を確信し、「クリスマスには家に帰れる」と思っていました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第一次世界大戦勃発 [歴史]

 1914年6月28日に起こったサラエヴォ事件以後、ヨーロッパの国際政局は、いっきょに緊張しました。翌7月5日、オーストリアの打診に対して、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が無条件の支持を確約しました。これに勢いを得たオーストリアは対セルビア強硬政策を推し進め、同月23日には48時間の期限つきで、セルビアに最後通牒を送りました。その内容は、サラエヴォ事件の責任はセルビア政府にあると断じ、セルビア国内での反オーストリア的運動の禁止を要求するものでした。しかし、セルビアはこれを拒否、両国の開戦はもはや避けられなくなっていました。この事態を憂慮したイギリスは、同月26日、危機打開策として英仏露独伊5カ国の外相会談の開催を提唱しましたが、ドイツの反対で開催にはいたりませんでした。同月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告をし、戦いの火ぶたが切られました。
 開戦3日後の7月31日、ロシア皇帝ニコライ2世は全土に総動員令を発し、フランスもドイツに対する開戦準備を整えます。これに対してドイツは、8月1日にロシア、3日にはフランスに宣戦布告、一方、ドイツの同盟国イタリアは、オーストリアとの領土問題から2日に中立宣言を発し、事実上、三国同盟から離脱しました。唯一態度を保留していたイギリスも、3日にドイツがフランスを攻撃するためにベルギーの中立を侵犯すると、それを口実として、翌4日、ドイツに宣戦布告します。こうしてヨーロッパ列強は、あいついで大戦へとなだれこんでいきました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

サラエヴォ事件 [歴史]

 1914年6月、バルカン半島オーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)併合領ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サラエヴォで、オーストリア陸軍大演習が行われました。それを観閲するために訪問中の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、28日、南スラヴ人の解放を唱える「青年ボスニア党」メンバーでボスニア出身のセルビア人青年ガブリロ・ブリンツィプに、白昼、射殺されました。大公夫妻は観閲式の帰途中、市内の通りで発射された2発の弾丸により、大公妃は即死、病院に運ばれた大公も十数分後に亡くなりました。大公は50歳、大公妃は43歳でした。
 フランツ・フェルディナント大公は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(84歳)の甥でしたが、皇太子と、皇帝の実弟である父の死去にともない、帝位継承者となっていました。大公は帝国の衰退を憂い、オーストリア=ハンガリー帝国に南スラヴ諸民族を加えた三重帝国による連邦国家への再編などを構想していたところ、1908年に併合したばかりのボスニアで、民族主義者によって暗殺されました。
 このサラエヴォ事件直後、プリンツィプら7人の暗殺関係者の背後関係が調査され、通称「黒手組」とよばれる大セルビア主義を掲げる秘密組織「統一か死か」などの存在が指摘されました。しかし、はっきりした証拠もなく、セルビア政府の関与についても確証は得られませんでした。
 地図・図版など詳細は、は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第2次バルカン戦争 [歴史]

 1913年5月30日、第1次バルカン戦争のロンドン講和条約が締結されました。これにより、トルコ(オスマン帝国)は、クレタ島と、イスタンブルを除くヨーロッパ側の領土の大部分を割譲することになりました。しかし、バルカン同盟諸国では獲得した領土の帰属をめぐって意見の対立が生じました。オーストリアの介入でアドリア海への出口を失ったセルビアがその代償として中部マケドニアの領有を主張し、ギリシア・ブルガリア間でもマケドニアでの国境画定交渉が行き詰まり、緊張がたかまりました。
 1913年6月29日、前夜からこの日にかけて、ブルガリア軍がマケドニアのゲヴゲリでセルビア軍を攻撃、さらに翌日、テッサロニキ北東のセレでギリシア軍へも攻撃し、バルカン諸国は第2次バルカン戦争に突入しました。しかし、この月の1日に秘密同盟を結んでいたギリシアとセルビアは反攻に転じ、モンテネグロ、ルーマニア、トルコもブルガリアに宣戦しました。四面楚歌になったブルガリアは、翌7月30日に休戦を求め、8月10日、ルーマニアのブカレストで、ブルガリアが領土割譲を約したブカレスト講和条約が締結されました。
 この条約により、ギリシアはテッサリア・エルピス・南部マケドニアを、セルビアは北部・中部マケドニアとノヴィ・パザル地方を得ました。それに対して、ブルガリアは西部トラキアと東部マケドニアを得るだけで、第1次バルカン戦争で得た多くの領土を失いました。
 2次にわたるバルカン戦争の結果、トルコの衰退がいよいよ決定的となり、ブルガリアの孤立も顕著となりました。それに対して、勢力を拡大したのがロシアを背景とするセルビアなどパン=スラヴ主義の勢力でした。そのため、トルコやブルガリアはしだいにオーストリア・ドイツに接近しました。このようなバルカン地域の情勢のなかで、ヨーロッパの大国の利害関係がからみ、しだいに危険な情勢となっていきました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第1次バルカン戦争が終わる [歴史]

 1912年10月17日、オスマン帝国とバルカン同盟との第1次バルカン戦争が始まりました。そして、翌11月には、はやくもオスマン帝国の劣勢が明らかとなりました。地理的にオスマン軍主力と対峙していたブルガリア軍は、11月3日にはオスマン軍を破り、オスマン帝国の首都イスタンブルから40kmにまで進軍します。セルビア軍はオスマン軍を撃破して南下、マケドニア諸地域を攻略し、同じく3日にはアルバニアを経由してアドリア海にまで到達します。またギリシア軍は北上し、11月9日には、マケドニア南部の中心地テッサロニキを占領します。
 劣勢のオスマン帝国は、1912年11月3日、フランスとオーストリアに仲裁を依頼しましたが、同日、ロシアはブルガリアのイスタンブル占領に警告を発します。11月19日、バルカン同盟諸国が講和条件として、オスマン帝国のヨーロッパ側領土からの全面撤退を要求しました。戦況はその後、膠着状態に入りましたが、12月3日、ギリシアを除く他の3国とオスマン帝国が休戦協定を締結、16日からロンドン講和会議が始まりました。
 講和を話し合うロンドン会議は、翌1913年2月に戦闘が再開され一時中断しましたが、4月に再度休戦し5月30日にはロンドン条約が締結されました。この条約では、オスマン帝国がエーゲ海沿岸エノス(エネズ)と黒海沿岸ミディア(ミディエ)を結ぶ線以西の領土と、クレタ島を放棄することを規定しています。オスマン帝国は、イスタンブルを除くヨーロッパ側の領土の大部分を割譲することになりました。なお、アルバニアはこの戦争のさなかに独立を宣言し、同年5月に国際的に承認されました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

第1次バルカン戦争が始まる [歴史]

 1908年の青年トルコ革命以降、オスマン帝国の中央集権的な「オスマン化」政策はバルカン諸国に強い反発をまねきました。1911年7月の第2次モロッコ事件で列強の目がモロッコに向けられているすきをついて、9月リビア進出をもくろむイタリアがオスマン帝国に対して宣戦布告し(イタリア=トルコ戦争)、同年10月リビア上陸に成功しました。この戦争をきっかけとして、バルカン諸国も対オスマン帝国でまとまりをみせはじめました。それまでオスマン帝国領マケドニア(現在の独立国北マケドニア)をめぐって対立してきたセルビアとブルガリアは、バルカン半島での影響力拡大をねらうロシアの後押しで、1912年3月13日に友好同盟条約を締結しました。つづいて、5月にはギリシアがブルガリアと、モンテネグロが9月にブルガリアと、つづいてセルビアと友好同盟条約を結び、ここに4国の対オスマン帝国のバルカン同盟が形成されました。
 1912年8月オスマン帝国領マケドニアでアルバニア人が暴動を起こすと、10月17日、この月の8日すでにオスマン帝国と戦端を開いていたモンテネグロに続き、セルビアとブルガリアがオスマン帝国に宣戦布告しました。19日にはギリシアも宣戦布告、バルカン同盟諸国とオスマン帝国との第1次バルカン戦争が始まりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

清朝最後の皇帝、溥儀が退位 [歴史]

 1912年2月12日、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀(6歳)が、辛亥革命後に総理大臣となった袁世凱によって退位に追い込まれました。ここに、約270年におよぶ満州族支配と、中国数千年にわたる専制王朝支配体制は、終焉を迎えました。
 前年1911年12月29日、南京で開催された17省代表者会議で、孫文は得票総数17票のうち16票を得て、臨時大総統に選出されました。さらにこの会議では年号を改め、太陽暦の採用を決定、旧暦11月13日を中華民国元年1月1日としました。同日、上海から南京に到着した孫文は、夜10時すぎに正式に臨時大総統に就任、ここに共和政の中華民国が成立しました。
 しかし、列強が袁世凱を公然と支持している事態を受け、孫文は1月22日、「清朝皇帝が退位し、袁世凱が共和政に賛成すれば、臨時大総統の地位を譲る」との声明を出しました。そこで袁世凱は、この日2月12日、軍を率いて北京に入城し、宣統帝に退位を迫りました。
 翌13日、孫文は臨時大総統を辞任し、袁世凱に南京に来て大総統に就任するように求めますが、袁世凱は口実をもうけて応じず、翌3月10日に、北京で大総統に就任します。
 なお、この年1912年は日本にとっても時代の区切りとなりました。7月30日、明治天皇が心臓麻痺により逝去されたことが宮内省より発表されました。享年59歳でした。ただちに皇太子嘉仁(よしひと、33歳)が皇位を継ぎ、元号を「大正」と制定、新しい時代が始まりました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 

辛亥革命 [歴史]

 1911年10月10日、夜10時過ぎ、孫文の意向をくむ清朝湖北新軍の革命派5,000人余りが、湖北省省都の武晶で蜂起しました(武晶起義)。この武晶起義が、辛亥革命の口火となりました。翌11日の早朝、革命軍は湖広総督の役所を攻撃、武晶を解放し、湖北軍政府の樹立に着手します。その夜には、漢陽の新軍が、12日早朝には漢口の新軍も決起しました。こうして、長江中流域の要衝である武晶・漢陽・漢口の武漢三鎮は、革命軍によって解放されました。
 この武晶起義の成功は、崩壊寸前にあった清朝に打撃となり、革命の動きは各地に広がります。そして同年11月末までに、全国24省のほぼ3分の2にあたる14省が清朝の支配から離脱し、独立を宣言します。同月30日には中国革命派の各省代表者会議が開催され、革命政府樹立を目標に中華民国臨時政府組織大綱を採択しました。
 孫文は起義の2日後、起義成功のニュースをアメリカ・コロラド州デンヴァーの宿舎で、朝食時に目にした新聞で知ります。彼は、いそぎ資金集めのためにヨーロッパをまわり、同年12月25日に上海に戻りました。同月29日、南京での17省代表者会議で、孫文は中華民国臨時大総統に選出されました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -