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第2次モロッコ事件 [歴史]

 1905年3月31日の第1次モロッコ事件から1911年7月1日の第2次モロッコ事件まで、独仏のあいだには次のようなことがらがありました。1908年9月25日、フランス外人部隊から脱走し、ドイツ領事館に逃げ込んでいたドイツ兵士3人が、フランス軍に拉致され、独仏関係が緊迫化します(カサブランカ事件)。その解決のため、1909年2月8日、独仏協定が調印され、フランスがドイツにモロッコにおける経済権益を譲渡するかわりに、政治特権を確保します。政治的優位を確保したフランスは、1911年になると、モロッコの内乱をきっかけに、フェス、メクネス、ラバトなど北部を占領しました。ドイツがこれに激しく抗議し、両国で協議をはじめようとしていました。
 その矢先の1911年7月1日、ドイツがモロッコ南西部の港アガディールに砲艦を派遣しました(アガディール事件)。砲艦派遣の理由を、現地にいる自国民の生命と財産の保護のためと主張するドイツに対して、軍事力の前に後退することを国辱として、フランスは態度を硬化させます。この第2次モロッコ事件収拾のため、フランス首相カイヨーは国内の強硬論を抑えて、イギリスの支持のもとにドイツとの交渉を開始します。
 1911年11月4日、独仏両国間に協定が結ばれ、第2次モロッコ事件が終結しました。フランスがフランス領コンゴの一部をドイツに割譲し、ドイツはフランスのモロッコにおける行動の自由を承認するという内容でした。こうして、またもフランス優位のうちに事件は終結しました。
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第1次モロッコ事件 [歴史]

 1905年3月31日、北西アフリカのモロッコに進出の野望を抱いていたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、アフリカでのイギリス、フランス両国に対する出遅れを挽回するため、この日、みずからモロッコの港町タンジールを訪問しスルタンと会見、モロッコの独立と、モロッコの門戸開放・領土保全を要求し、フランスのモロッコ進出に反対の意思を表明しました。
 モロッコは地中海の出入口にあたる戦略的な要衝で、鉱物資源も豊富なため、19世紀以来、イギリス、フランス、スペインが進出し、モロッコ争奪戦を展開していました。そうしたなかで、前年1904年、英仏協商が成立し、イギリスのエジプト支配と、フランスのモロッコでの優先権が認められ、フランスはモロッコに積極的に進出を始めました。そのためドイツ皇帝の突然の訪問はフランスとの緊張をいっきに高めたたため、第1次モロッコ事件(タンジール事件)と呼ばれています。
 翌1906年1月16日、スペインのアルヘシラスで事件解決のための国際会議が開かれ、4月まで会議は続けられました。この会議でドイツはモロッコにおけるフランスの優越的地位を阻止しようとしましたが孤立し、失敗しました。会議の結果、モロッコ財政のフランス管理が認められて、モロッコは事実上フランス、スペインの勢力範囲となりました。
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日本が韓国を併合 [歴史]

 1910年8月22日、大韓帝国首都の漢城内外を日本軍と憲兵隊が厳戒するなか、寺内正毅韓国統監と李完用大韓帝国総理大臣が韓国統監府で8か条からなる「日韓併合ニ関スル条約」に調印しました。同条本文で「韓国皇帝が、韓国のいっさいの統治権を永久に日本国皇帝に譲渡し、それを日本国皇帝が受諾して韓国の日本帝国への併合を承認する」し明記しており、日本による植民地化を隠蔽するものでした。条約は7日後の8月29日に公布、実施され、1392年以朝は滅亡、大韓帝国(韓国)の国号は消滅し、単に朝鮮となりました。韓国皇室は皇族の礼をもって遇せられ、李完用はその功績により伯爵の称号と15万円が与えられました。韓国国内では、この8月29日は国恥記念日となり、日本に抗議する自決者も現れるなど、以後、朝鮮内外で反日独立運動が展開されていきます。
 日本は、統監府にかわり朝鮮総督府をおき、初代総督に寺内正毅を任命しました。寺内は独立運動を力ずくで押さえ込む武断政治をすすめていきます。翌1911年8月24日には朝鮮総督府は朝鮮教育令を公布し、日本語による教育体制をしきます。日本国内の世論は、富国強兵論のなかで、新領土開発を期待して併合を歓迎し、併合が朝鮮に秩序と進歩をもたらすとしたものが多くみられました。
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ハーグ密使事件から伊藤博文暗殺へ [歴史]

 1907年6月26日、韓国皇帝によるハーグ密使派遣が明らかになりました。オランダのハーグで開催中の第2回万国平和会議に3人の朝鮮人が現れ、大韓帝国皇帝の委任状を示して参加を求めました。彼らの目的は、2年前の1905年に調印された韓国の外交権を奪い保護国とした第2次日韓協約の無効を訴え、日本の侵略行為を列国の前に明らかにすることでした。しかし、日本の保護国となった大韓帝国に外交権はないとして参加を拒否されました。
 万国平和会議事務局からの電報でこのことを知った韓国統監伊藤博文はただちに皇帝高宗を追求、追い込まれた高宗が翌7月20日に退位し、その4日後には各部の次官などの要職を日本人が独占する第3次日韓協約が締結されました。さらに8月1日には韓国軍も解散させられました。その後、解散に不満を抱く兵士たちは、反日武装闘争である義兵闘争に合流していきます。そして、この事件以後、半年にわたり抗日運動が高まりました。
 事件が鎮静化したかにみえた2年後の1909年10月26日午前9時半、ハルビン駅頭で、公爵伊藤博文は3発の銃弾を受けて倒れ、車内で手当てを受けましたが、30分後に死亡しました。68歳でした。狙撃者はその場で取り押さえられ、安重根と名乗る朝鮮人だと判明しました。裁判の過程で、彼はみずから義兵中将と名乗り、韓国統監だった伊藤の暗殺は、独立戦争としての戦闘行為だと主張しました。彼の堂々とした法廷陳述と、さらに愛国心の高まりを恐れた日本は、翌1910年3月に旅順で彼を処刑するとともに、同年8月22日、韓国を併合しました。なお、安重根は韓国では独立の義士といわれています。
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ロシア、国会開会からストルイピン体制へ [歴史]

 1906年5月10日、この日、前年1905年の第1次ロシア革命の成果を受けて、ロシアで最初の国会が開会されました。地主やブルジョアジーに有利な選挙法だったのにもかかわらず、ツァーリ政府に反対する党派が大多数を占め、議長もその中心であるカデット(立憲民主党)から選ばれました。
 この後、ツァーリ政府は、土地改革の要求など、議員たちの激しい政府批判に対して、同年7月21日、国会を解散します。これと同時に国会運営の手腕から内務大臣ピョートル・ストルスピンが首相に就任します。彼は同年11月22日の勅令によってミール(農村共同体)の解体、個人農の創出などの改革にのりだしました。しかし、彼は翌1907年3月に召集された第2国会を解散、選挙法も富裕層優遇に変えました。同年11月14日に開会された第3国会では、反革命派が勢力を盛り返し革命派を弾圧します。こうして、ロシアは第1次ロシア革命からストルイピン体制へと移行していきました。
 ストルイピンの打ち出した最も重要な方策は、私有地をもつ個人農の創設でしたが、改革は難航し、皇帝・保守的地主派と対立しました。そして、1911年9月14日、一説には警察のスパイされる人物によって、狙撃され死去しました。彼は名門貴族の出身で、皇帝の権力を盾に改革を強行し、反動の権化といわれてきましたが、現在は大政治家としての評価が高まっています。彼がすすめていた自営農創設は、ロシア革命直前の1916年の時点で、全農家の22%がミールを離脱しています。
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ロシアで「血の日曜日事件」起こる [歴史]

 ロシアの司祭ゲオルギー・ガポンが1904年に組織した労働組合で、1905年になって組合員が解雇されました。これに対する抗議のストライキが首都サンクトペテルブルク全市に波及すると、ガポンは無権利状態にある自分たちの窮状と、憲法制定会議の開催、政治的な自由、日露戦争の中止、8時間労働などの要求を、直接ツァーリ(皇帝)に訴える請願書の提出を提案しました。これが広く労働者に受け入れられました。
 1905年1月22日、冬宮にいる皇帝ニコライ2世に請願書を届けようと、ペテルブルク市内を行進する約10万人の労働者に対して、要所に配置されていた軍隊が発砲、多数の死傷者が出ました。軍隊と群衆の衝突は市内の10カ所以上で起こり、死者は数百人にのぼりました。これが「血の日曜日事件」です。
 皇帝の肖像を掲げ、イコンを持った労働者の平和的な行進に対するツァーリ政府のこの暴挙は、ロシア各層の憤激をよび、ここに第1次ロシア革命が開始されました。
 革命は、この年1905年10月の全国政治ゼネストでピークを迎え、ツァーリ政府は、市民的な自由と選挙権の拡大などを約束する十月詔書を出すことになります。これによって、ロシアに憲法と国会がもたらされます。
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M8.3地震、サンフランシスコを直撃 [歴史]

 1906年4月18日午前5時13分、サンフランシスコでアメリカ西海岸史上最大級の地震が発生、震動は2分40秒も続きました。その後、6時間にわたり6回の強震が市を襲い、とくに8時45分に発生した3回めの強震は、最大の被害をもたらしました。
 ハイウェーは一瞬にして裂け目が入って分断され、市の大半の建物は粉々になって崩れ落ち、瓦礫の山となりました。さらに大きな被害が、地震に続く火災によってもたらされ、市は一面の火の海と化しました。火災は3日間も続き、ビジネス街を中心として広い範囲が完全に焼け落ちました。25万人の市民が家屋を失い、死者は1,000人以上を記録、被害総額は周辺都市の被害を合わせると未曾有のものとなりました。この年は、地震を一つの契機として排日運動が盛り上がり、日本人学童を別の学校に隔離する騒ぎも発生しました。
 こうした惨状に再起不能と思われた市は、9年後の1915年、パナマ運河開通を祝って開催されたパナマ・太平洋万国博覧会のころには完全に立ち直り、フェニックス(不死鳥)が市のシンボルとなります。のちに、この地震は横ずれ断層の代表的な例で、サンアンドレアス断層によるものと判明、活断層概念などを生むきっかけとなりました。
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サンフランシスコ市、日本人学童に隔離命令 [歴史]

 アメリカでは、1900年前後から日本人移民が増え、そのためカリフォルニアの労働者を中心に排日運動が高まっていました。1906年10月11日、サンフランシスコ市学務局は、同年4月の震災の影響で小学校の校舎が不足しているとの理由により、日本人の学童を普通学校から特別な東洋人学校へ収容することを命じました。前年1905年には、連邦議会に日本人労働者排斥法案を提出する動きもみられました。
 前年の1905年、アメリカの鉄道王ハリマンと桂太郎首相によって南満州鉄道の共同経営に関する協定が結ばれましたが、日本政府はその直後に、これを一方的に破棄して、中国への進出を期待していたアメリカを失望させ、両国の関係は急速に冷え込みました。こうしたことを背景に、日本人学童隔離問題がおこりました。
 日本政府はこの隔離命令に抗議し、アメリカ政府との外交交渉を開始しました。しかし、サンフランシスコ市当局やカリフォルニア州の世論は強硬で、ルーズベルト大統領の斡旋により、ハワイ・メキシコ経由の日本人移民を禁止する条項を移民法に盛り込むことで妥結しました。その結果、隔離命令は翌1907年3月に取り消されました。
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南満州鉄道が発足 [歴史]

 1906年11月26日、神田青年会館で、南満州鉄道株式会社の設立総会が開かれ、初代総裁に前台湾総督府民政長官の後藤新平が就任しました。南満州鉄道(満鉄)は日本の対大陸政策のかなめとなるもので、日露講和条約によってロシアが日本に譲渡した旅順と長春のあいだの鉄道と、それに付属する利権をもとに設立されました。同年6月に勅令で設立が公布され、8月政府は満鉄設立の命令書をだして定款などを定め、満鉄の経営内容を具体化しました。
 営業の中心を旅順・長春間の鉄道とその支線の経営、ならびに撫順・煙台の炭鉱の経営とし、ほかに水運業や電気業・鉄道貨物の委託事業・倉庫業・鉄道付属地の土地・家屋の管理など、多様な事業を行うことを決めました。資本金総額は2億円、うち1億円は政府の出資で、既設の鉄道や炭鉱などを現物で拠出し、あとの1億円は株式の募集によって調達することとしました。
 同年9月10日から10月5日まで株式の第1回募集が行われ、9万9千株の募集に対して、申し込み株数は1億660万株をこえるブームをひきおこしました。1人で売り出し株式全部の購入を申し込んだ大倉喜八郎には91株、5万株を申し入れた古河虎之助には46株というように、株式は細分化して割り当てられました。さらに、満鉄経営に必要な資金を、横浜正金銀行や日本興業銀行を通じて多額の外資を導入してまかなうこととしました。
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日本、韓国を保護国化 [歴史]

 韓国に対する日本の支配権は、1905年7月の桂・タフト覚書、8月の第2次日英同盟協約、9月の日露講和条約により、列強国に承認されました。これを前提として11月、伊藤博文枢密院議長が韓国皇室の慰問を名目に、特派大使として韓国に派遣されました。
 1905年11月17日、伊藤は漢城(ソウル)の宮廷を日本の武装兵でとり囲み、第2次日韓協約案について強引に各大臣の承認を要求、深夜になってようやく、駐韓日本公使林権助と韓国外務大臣朴斉純により第2次日韓協約が締結されました。この協約によって、日本は韓国の外交権を掌握し、日本政府の代表として統監がおかれることになりました。
 同年12月には韓国統監府の官制が公布され、伊藤が初代統監に任命されました。翌1906年1月下旬までに各国公使は撤退、代わって総領事あるいは領事がおかれました。一方、日本の保護国化政策に、漢城市内の商店は店を閉じて反対の意思を表明、政府高官のなかには韓国皇帝に上訴したり、自決する者もでました。また、協約に賛成した5大臣の暗殺計画など、各方面でこの後さまざまな反対運動がおこります。
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