SSブログ

辛亥革命へ [歴史]

 1907年になると、反清武装蜂起はますます広がりをみせ、この年、中国同盟会は5度の大規模な反清武装蜂起を起こしますが、いずれも失敗に終わります。しかし、清朝政府にとって革命勢力は無視出来ない大きな脅威となりました。この年の武装蜂起の動きのなかで、秋瑾の蜂起未遂事件が有名です。
 秋瑾は中国最初の女性革命家で、「秋風秋雨人を愁殺す」の詩句で有名です。秋瑾は反清民族主義に目覚め、1904年に夫と家を捨てて日本に留学し、中国同盟会に参加しました。1906年に中国に戻ってからも革命運動に参加していました。その年の7月にはいると、反満州族感情の強い革命結社光復会系の人びとが単独で呉・越地方で武装蜂起を計画、蜂起の当日の7月13日、計画を暴いた清朝政府は、首謀者として秋瑾を逮捕し、2日後に秋瑾を処刑しました。享年32歳でした。
 このころから、新たな問題が反清感情を刺激します。それは幹線鉄道を国有化し、外国からの借款によって鉄道建設をすすめる計画です。外国からの利権を回収して民営の鉄道建設をおこなおうとしていた民族資本家や地方有力者は、この計画に猛反対します。しかし、1909年6月6日、清朝政府は英独仏の3カ国と湖広鉄道借款契約を結びます。さらに、翌1910年になると、5月23日、清国に対する英独仏の3カ国銀行団がアメリカの参加を承認し、四国銀行団が成立し、11月10日、四国銀行団はロンドン協定を結び、湖広鉄道を除く全中国の鉄道借款に平等に参加することを決定しました。
 地図・図版など詳細は、webページ「みんなの社会」(https://net-hub.jp/~hnakayam/)を検索ください。
nice!(0)  コメント(0)